ミハイル・ゴルバチョフ大統領はペレストロイカやグラスノスチを主導し、ソ連崩壊を導いた人物として知られる、旧ソ連末期に活躍したソ連の最高指導者です。
ミハイル・ゴルバチョフはソ連崩壊前の時代において、恐らく最も革新的な考えの持ち主であり、また、その考えを実行に移した偉大な人。
何十年も続いた冷静を終わらせ、現在の国際情勢の始まりに大きく関わったソ連崩壊の立役者であり、旧ソ連の大統領です。
また、その改革の柱としてゴルバチョフが行った「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」は共に有名です。
この記事では、そんなミハイル・ゴルバチョフについて詳しく知るために、その生涯からあまり知られていない5つのことまでを紹介していきます。
まずは、ゴルバチョフに関する簡単なまとめを確認することから始めていきましょう。
ソ連の元大統領「ミハイル・ゴルバチョフ」とは?
ミハイル・ゴルバチョフ(1931年3月2日〜)とは、全名「ミハイル・セルゲーヴィッチ・ゴルバチョフ(Mikhail Sergeyevich Gorbachev)」で、ゴルビーの愛称でも知られる旧ソビエト連邦の政治家で最高指導者。
また、額に世界地図のようなあざがあることでも知られる人物。
1985年3月11日から1991年12月25日までのソ連崩壊前最後の時期に、ソ連の指導的立場にいた人物で、当時は毎年のように最高指導者の役職名が変わったため、同時期において以下のような役職を歴任しています。
- 1985/3/11〜1991/12/25
- 第8代最高指導者
- 1988/10/1〜1989/5/25
- 第11代最高会議幹部会議長
- 1989/5/25〜1990/3/15
- 初代最高会議議長
- 1990/3/15〜1991/12/25
- ソビエト連邦初代大統領
またゴルバチョフは、当時、西洋諸国に比べて明らかに停滞していたソ連の経済や社会を改革するため、「ペレストロイカ(再建または改革)」と「グラスノスチ(情報公開)」の二つを実施したことでも有名。
本来はソ連を救済するために行った2つの改革によって、社会主義だったソ連の中で言論の自由など民主化の動きが高まり、その結果、ソビエト連邦を構成していた各共和国や東欧諸国のソ連からの独立が起こったため、ソ連の崩壊を招いたとして良い意味でも悪い意味でも知られています。
一方で、西洋諸国との対立の解消や核兵器削減の進展などを目指した新思考外交によって、45年近く続いた冷戦を集結させたり、アフガニスタンからソ連軍の撤退を決め、その功績によってノーベル平和賞を受賞するなど、西側諸国では非常に評価が高い人物でもあります。
ちなみに、ソビエト崩壊以降はロシア連邦の政治家として活躍しています。
ミハイル・ゴルバチョフ元大統領を知るために、その生涯をダイジェストで見ていこう!
農民出身の生い立ちを持つゴルバチョフ
ミハイル・ゴルバチョフは1931年3月2日、ロシア南部のスバヴロポリ地方プリヴォリノエ村(village of Privolnoye)で、ロシア人とウクライナ人の両親の間に農家の一人っ子として生まれました。
(出典:Aangirfan)
ゴルバチョフの父セルゲイは、第二次世界大戦に従軍してナチスと戦い、その戦いの中で負傷して帰還。その後は集団農場(コルホーズ)で、農業機械の運転技術者として働いていました。
一方の母マリヤも集団農場の労働者で、同じ農場で一生を過ごした人物です。
そして父セルゲイは、息子ミハイルの飲み込みが早いことに気づき、ミハイルに収穫方法や農業機械に関する多くのことを教えた結果、ミハイルは次第に農業機械技術者として頭角を現していくと同時に、家族の生活を支える親孝行な息子となっていきます。
そして17才の時、積極的な仕事と収穫量を増加させた功績により、ミハイルは労働赤旗勲章(平均以上の作業成果をあげたり、生産ノルマを超える功績を達成したりした個人や団体に対して共産党が授与する勲章)を受賞しました。
当時、ミハイル・ゴルバチョフがなぜ農業の成果をそれほどまで追求したかについて、本当のところは分かりませんが、ミハイル少年は2人の姉妹とおじを飢餓で亡くしていたため、それが動機になっていたと考えられるのではないでしょうか。
ゴルバチョフの政治生活の始まり
1950年、ミハイル・ゴルバチョフが19歳になると、スバヴロポリ市当局の推薦によってモスクワ大学に入学。1955年、法律の学位を取得してモスクワ大学を卒業します。
この大学在学期間中に、ミハイル・ゴルバチョフは共産党員になり(1952年10月のこと)、すぐに共産党内で活発な活動を始めて注目されるようになっていきます。
(出典:pinterest)
そして、スタヴロポリ地方に帰郷した後も、共産主義青年同盟(コムソモール)の中で出世し続けて地方第一書記になり、その後1961年には地方代表として共産党大会への派遣団の一員にも加わります。
また、共産党の中で地位を築き上げる一方で、ゴルバチョフは、当時の地方状況を改善するために必要だった農学と経済学の勉強も続けました。
その結果、ゴルバチョフはスタヴロポリ地方の農業指導担当の党官僚、および地区書記になり、この頃に後のロシア連邦の初代大統領となったボリス・エリツィンとの交流も始まります。
月日は流れ、1978年には党中央委農業担当書記に、1979年には政治局員候補として政治局(ソ連共産党の政策決定機関)入り、1980年には史上最年少で政治局員になり、ソ連の頂点に近づいていきます。
この頃のゴルバチョフの出世については、当時のゴルバチョフが得ていた「正直者」や「誠実」という評価が主な理由でしょう。
この評価によって、権力を握っていた当時の指導層からの信頼を得た結果、部下として自然と立場も引き上げられていったのです。
ついにソ連の頂点へ上り詰める
1982年にレオニード・ブレジネフ(当時の最高指導者)の死去を受けて、ユーリ・アンドロポフが書記長に就任すると、ゴルバチョフは当時のソ連の権力No.2に当たるイデオロギー担当書記へ引き上げられます。
またこれ以降、アンドロポフはゴルバチョフを自分の後継者にするために教育しました。
しかし、1984年にアンドロポフが急死すると、ゴルバチョフでなく高齢のコンスタンティン・チェルネンコが書記長へ就任、しかし結局は高齢のため1985に死去してしまいます。
この最高指導者が短期間で入れ替わる状況に憂慮した共産党は、もっと若い人材を指導者に登用するべきだと考えるようになり、1985年3月11日、政治局で当時一番若かったミハイル・ゴルバチョフが54才で書記長に選ばれて就任したのです。
ちなみに、何年にもわたって敵対関係にあった西側諸国から、ソ連がそれまでとは違った見方をされるようになったのは、ゴルバチョフ書記長が大きく影響していると言えます。
例えば、イギリス首相のマーガレット・サッチャーやアメリカ大統領のロナルド・レーガンなど、西側の指導者たちは「彼となら一緒に仕事ができると感じた」とか「彼がソ連を導く方向性に感銘を受けた」などの言葉を残しています。
ペレストロイカ(再建)とグラスノスチ(情報公開)に着手する
1986年、ゴルバチョフは書記長に就任すると直ちにペレストロイカに着手します。
ペレストロイカ
ペレストロイカは、低迷したソ連経済を立て直すために政治体制の再建(再構築)を目指した政策。
当時の世界において経済大国の一つであったソ連は、数年間におよぶ経済的な低迷を続けていたため、この経済不況をもたらした政府や組織を再建し、経済的に市民生活を改善しようと目指したのです。
ペレストロイカは様々な成果をあげましたが、その中でも間違いなく成功した改革を一つ挙げるとすれば、政治を再構築する過程で、選挙がより民主的に行われるようになったことでしょう。
そして1990年、ゴルバチョフは新たに設置された人民代議員大会によってソ連の初代大統領に選出されたのです。
グラスノスチ
またゴルバチョフは、ソ連や東欧の社会主義国(東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアなど)の情報公開を促進させたことでも世界的に知られています。
これはグラスノスチと呼ばれる政策です。
また、ゴルバチョフは国内でのグラスノスチ、つまり表現の自由を推進したことで、政治、外交などに関する議論が活発になり、ソ連軍のアフガニスタンからの撤退が実現します。
加えて、第二次世界大戦後にソ連の衛星国(政治、経済、外交などの面で支配、または影響を受けている国)になった国々もまた、改革と情報公開を望むようになっていきます。
結果、東欧の社会主義国はそれまで緩衝地帯としての役割を果たしていましたが、グラスノスチによって、そのような防護壁はもはや必要なくなり、また、ソ連は衛星国の指導者たちに「ソ連軍は衛星国の現在の共産党政府を今後支援しない」と伝え、中欧の衛星国に駐留していたソ連軍を撤退させていきます。
ゴルバチョフは冷戦時代を終結させ、「東西の緊張緩和」という新しい時代へソ連を動かしていったのです。
ノーベル平和賞の受賞からソ連崩壊まで
1990年、ミハイル・ゴルバチョフはソ連軍のアフガニスタン撤退、外交政策の功績などを評価されてノーベル平和賞を受賞。
また、ソ連を世界に向けて開放するための試みとして、ゴルバチョフは孫のアナスタシアと一緒にピザハットのコマーシャルに出演したこともありました。
一方、西側との接触を積極的に試していくゴルバチョフに対して、1991年、共産党の強硬派によるゴルバチョフを失脚させるクーデター(ソ連8月クーデター)が試みられます。
このクーデターは失敗しましたが、その後間もなく、ソ連を構成していた複数の共和国の首脳たちが、ソ連に代わる「独立国家共同体」の設立に関して12月8日に合意。
追い詰められたゴルバチョフは12月25日に辞任し、それに伴ってソ連はついに崩壊したのです。
ソ連最後の最高指導者「ミハイル・ゴルバチョフ」についてあまり知れていない5つのこと!
見てきたように、ミハイル・ゴルバチョフはロシアを民主化へと導き、冷戦を終結させた人物として、特に西側諸国の人々から高い評価を得てきました。
そして、ソ連崩壊から25年以上が経過した現在でも、ゴルバチョフは世界で最も有名な政治家の一人であり、熱心な公人、そして有名な作家だったりもします。
ここからは、ゴルバチョフについてあまり触れられないけど興味深い5つのことを紹介していこうと思います。
グラミー賞を受賞しちゃった!
冷戦の終結や核兵器の削減などの取り組みによって、ミハイル・ゴルバチョフがノーベル平和賞を受賞したことは有名ですが、実は世界で最も権威ある音楽賞の一つ「グラミー賞」を受賞したことはあまり知られていません。
2004年にゴルバチョフは、元アメリカ大統領ビル・クリントンとイタリアの女優ソフィア・ローレンと共同で取り組んだプロジェクトで、グラミー賞の「最優秀子供向けスポークン・ワード・アルバム賞」を受賞!
セルゲイ・プロコフィエフの児童書「ピーターと狼」の会話を、アルバム用に録音したものを対象にして、グラミー賞が授与されたのです。
ちなみに旧ソ連の最高指導者は、物語の紹介部分とエピローグのナレーションを担当しています。
ルイ・ヴィトンの広告に出たこともある!
2007年、ソ連が崩壊してから15年近く経った頃、このペレストロイカの父は、フランスのファッションブランド「ルイ・ヴィトン」の広告キャンペーンにも出演したことで、世界中に驚きを与えて注目されたことがあります。
このキャンペーンの中でゴルバチョフは、リムジンでベルリンの街を旅行している上品な男性を演じています。
2008年には大統領自由勲章を送られた!
大統領自由勲章とは、アメリカによって文民に送られる最高位の勲章。
で、実はゴルバチョフ、冷戦終結における彼の勇敢な功績を称えられ、2008年にこの大統領自由勲章を送られているんです!
この授与式は2008年9月19日に行われ、ベルリンの壁崩壊20周年記念を盛り上げ、また、当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュによって授与されました。
チェルノブイリ原子力発電所事故の後に現地を訪問した
1986年に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故は、人類の歴史上最も最悪な原子力発電所の事故と言われ、当時のソ連に暗い影を落としました。
そして、現地は放射能汚染が醜かったため、誰も近づこうとはしませんでした。
そんな中、ミハイル・ゴルバチョフとその妻ライーサは、1989年2月に初めてチェルノブイリ原子力発電所を訪問し、少しでも現地とソ連全体に元気を与えようとしたのです。
ヴィム・ヴェンダースの映画に出演した
1993年にリリースされたドイツの映画に、「時の翼にのって/ファーラウェイ・ソー・クロース!」というカンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞した映画があります。
この映画は、東西統一後のベルリンが舞台となっており、まさにゴルバチョフが最も輝いていた時期を舞台にした映画。
そして、その映画の中でゴルバチョフは本人役として出演していたんです!
ここからも、ミハイル・ゴルバチョフが当時の西側諸国で大人気だった様子が伺えます。
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ミハイル・ゴルバチョフ大統領|ペレストロイカやグラスノスチを主導しソ連崩壊を導いた人物のまとめ
ゴルバチョフはソ連崩壊後に表舞台からは去ることになりました。
しかし、1992年には環境的、経済的問題に取り組む、通称「ゴルバチョフ財団(Gorbachev Foundation)」を設立したり、2008年にはロシア独立民主党という新党を結成するなど、現在もロシアと世界のために活動を続けています。
これからも、ミハイル・ゴルバチョフは地味ながらも様々な活動を通して、世界平和や社会開発などに貢献していくことでしょう。