エリザベス1世とその生涯について見ていきましょう。大英帝国の礎を築いたとされる、イギリス史においては有名で重要な女王です。
強大な帝国「大英帝国」として、近代に大きな影響力を持ったイギリスは、現在の国際社会においてさえも重要な国家です。
イギリスがここまで強大な国家になっていった過程では、一人の名君がいました。
その名も、「エリザベス1世」と呼ばれるイギリスの女王。
彼女の統治下でイギリスは黄金時代を迎え、これがまた、その後の大英帝国の礎となっていったのです。
この記事では、そのエリザベス1世について、生涯も含め、詳しく紹介していこうと思います。
まずは、エリザベス1世の基本的な知識から始め、彼女の生涯をダイジェストで見ていき、最後に、彼女にまつわる5つの興味深い話を紹介していきます。
エリザベス1世とは?
エリザベス1世(1533年9月7日〜1603年3月24日)は、1558年11月17日から1603年3月24日にかけて、イングランドとアイルランドの女王であった人物。
テューダー朝(イングランド王国とアイルランド王国の王朝の一つ)の最後の君主でもあります。
彼女は生涯未婚を突き通し、国と結婚した「処女王」として知られると同時に、彼女の治世下においてイギリスは「黄金時代」を経験しました。
外交面ではスペインの無敵艦隊の襲撃を退けたり、内政面では社会的な混乱を抑えて積極的に改善し、それによってイギリス文化が花開くなど、イギリスの栄光とその後の大英帝国の幕開けを呼んだのです。
そのため、エリザベス1世は今日でも、世界で最も有名で高く評価された君主の一人として、世界史に名前を残しています。
イギリスを繁栄させて大英帝国の幕開けを呼んだ女性「エリザベス1世」の生涯
エリザベス1世の幼少期
エリザベス1世は1533年9月7日に、国王ヘンリー8世の次女として誕生しました。
(ヘンリー8世)
しかし、後継者となる息子を望んでいたヘンリー王は、娘エリザベスの誕生に失望。
加えて、エリザベスが2歳の時、母親のアン・ブーリンが反逆と姦通の罪に問われて処刑された結果、ヘンリー8世とアンの結婚は無効とされ、エリザベスは婚外子という扱いになってしまいます(エリザベスは幼いながら、自分に対する周囲の人の態度が変わったことに気づいていたらしい)。
しかし、ヘンリー王が後に男の子(エドワード6世)を授かると、エリザベスはエドワードと姉のメアリーに続いて、王位継承権第3位として再び宮廷に向かい入れられ、高度な教育を施されます。
なかでも、エリザベスは特に外国語の才能が優れていたと言う話は比較的有名です。
エリザベスに困難な時期が訪れる
1547年、ヘンリー8世が死去した結果、エリザベスの異母弟にあたるエドワード6世(当時9歳)が国王として即位すると、エリザベスの立場は不安定なものになります。
(エドワード6世)
彼女は知らず知らずのうちに、トマス・シーモア(テューダー朝イングランドの貴族)が企てた、エドワード6世を追放する計画に巻き込まれてしまい、厳しい尋問を受けるのです。
この尋問の中で彼女は、落ち着いた態度ですべてを否定したため、最終的には釈放されましたが、シーモアは処刑されることとなりました。
そして、エドワード6世が15歳で死去すると、1553年、カトリック教徒であるエリザベスの異母姉メアリー1世が女王となり、エリザベスを取り巻く状況はさらに悪化します。
(メアリー1世)
メアリー1世は、ヘンリー8世以来推し進められてきた宗教改革を覆して、イングランドをカトリック世界へ復帰させると同時に、プロテスタントを迫害し、多くの人たちを処刑(※これによって彼女は「ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)」として後世に名前を残した)。
これに対して国内のプロテスタント達が、プロテスタントの教育を受けたエリザベスを対抗する存在として掲げて、メアリーに対する反乱を各地で起こしていきました。
その結果、エリザベスは一時ロンドン塔に収監されることとなってしまったのです。
しかし、エリザベスは至って平穏を保ち続け、エリザベスが反乱に関わったという証拠は見つかりませんでした。
またメアリーの夫フェリペ(スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した偉大なる王となった人物)は、政治的な理由から、エリザベスに価値を見出して処刑の回避を後押ししたことから、エリザベスは処刑を免れて釈放されたのです。
イギリス女王となったエリザベス1世
1558年11月17日にメアリーが死去すると、エリザベス1世はヘンリー王の3番目にして最後の後継者として女王に即位します。
彼女がロンドンに入城する際の行進、そして戴冠式は、政治的・社会背景を基にして入念に計画された傑作と言われ、エリザベス女王は、宗教の寛容を望んだ多くのイングランド国民から暖かく迎え入れられることとなります。
また、エリザベスは小さいながらも枢密院議会をすぐさま招集し、何人かの人物を重要な相談役に任命しています。
そのうちの一人、ウィリアム・セシル(後のバーリー男爵)は、メアリー1世が亡くなった1558年11月17日には国務卿に任命され、その後40年間にもわたって、その座に就いてエリザベスをサポートし続けることとなりました。
結婚問題と「処女王」としてのエリザベス1世のイメージ
エリザベスが即位直後に直面した問題の一つは「結婚問題」でした。
相談役、政府、国民は皆、彼女が結婚してプロテスタントの後継者を産むことを期待。
また、女性が君主となる場合は一般的に「男性の指導(この場合は夫によるもの)」が必要であるとされており、結婚すればこの問題が解決されると考えられていました。
しかし、エリザベスはあまり結婚に興味を示さなかったと言われています。
彼女は独身者としてのアイデンティティを保つことで女王の立場、そしてヨーロッパの政治やイギリスの党派争いに対して、中立の立場を保つことを望んでいたようなのです。
そのため、ヨーロッパ貴族から数多くの政略結婚の申し込みがあったにも関わらず、エリザベスはこれをすべて拒否。
また、イギリスの貴族(特にロバート・ダドリー)との間に恋愛関係があったとも言われていますが、結婚に至ることはありませんでした。
このような一連の行動を通して、エリザベス1世は女性君主に対して多くの人が抱いていた懐疑心、つまり、「女性で君主が務まるのか?」という疑念に対して、面と向かって対抗したと言えます(※この疑念は姉のメアリー女王が未解決のまま残したものでもあった)。
また、エリザベス1世は、女性であっても君主として十分な力を持つことを周知させるため、女王としての権限を華麗に見せつけることに尽力し、また、この方法は後のイギリス王や女王の統治方法の見本となりました。
さらに、男性とではなく国家と結婚した女王「処女王」としてのセルフイメージを作りあげ(これによって自らの快楽を追求するのではなく国のために生涯を費やすというイメージが定着した)、また演説には「愛」などの愛情を意識させる言葉を多用ました。
このセルフブランディング戦略は大成功をおさめ、エリザベス1世は今でも最も愛されているイギリス君主の一人であり続けています。
イギリス国教会の復活
エリザベス1世の治世によって、メアリー女王によるカトリック時代は終わりを告げます。
ヘンリー8世時代から続く宗教革命に沿った政策に戻り、国王はイギリス国教会(1534年にカトリック教会から独立したイギリスの国教会で、国王を最高首長として成立し、プロテスタントに分類される)の首長となることとなったのです。
そして1559年、エリザベス1世は「国王至上法」を発布し、段階的な改革を経てイギリス国教会を完全な形に作り上げました。
イギリス国民はみな、表向き、この新しい国教会に従わなければならなくなりましたが、エリザベス1世は全国的に、内実は信仰の自由を許す寛容政策を敷きます。
この点に対して、より急進的なプロテスタントからは反対の声があがりましたが、エリザベスは批判を受けながらも自らの政策を突き通したのです。
カトリックとスコットランド女王メアリーの陰謀
プロテスタントを国教に採用すると決めたエリザベス女王は、ローマ法王から破門されてしまいます。
それだけでなく法王は、
- エリザベス女王に従わない権利
- エリザベス女王を殺害する権利
までもを人々に与えると宣言したのです。
この発言後、エリザベス殺害を企てる数々の計画が持ち上がりますが、なかでも特に、スコットランド女王メアリー(メアリー・ステュアート)はこの状況を悪化させました。
ちなみに、メアリーはカトリック教徒で、エリザベス1世死後の第一王位継承者でもありました(メアリーはスコットランド国内での問題により、1568年にイングランドに亡命し、エリザベスの捕虜となっていた)。
(メアリー・ステュアート)
このメアリーを王座に就ける陰謀が数多く持ち上がったのです。
当時の政府は、メアリーを処刑することを何度も提案しますが、エリザベスは首を横に振ります。
しかし最終的に、決定的なバビントン陰謀事件(1586年にイギリスで発覚した女王エリザベス1世殺害の陰謀事件で、メアリーも首謀者と連絡していたことが探知された)が起こり、1587年スコットランド女王メアリーは処刑されました。
戦争とスペインのアルマダ
イングランドのプロテスタント政策は、カトリックの国スペインや、若干ではありますがフランスとの間に、軋轢を生むこととなります。
スペインはイギリスに対して軍事的攻撃を仕掛ける計画をしており、エリザベスはヨーロッパ大陸のプロテスタントを保護しなければならないというプレッシャーをかけられました。
さらに、スコットランドやアイルランドとの間にも対立が存在していました。
エリザベス1世の治世中に起こった最も有名な戦争は1588年、スペインがアルマダと呼ばれる艦隊を組織してイギリスに攻撃を仕掛けた「アルマダの海戦」でしょう。
これは、有名なスペインの無敵艦隊が、関係の悪化したイングランドを侵攻しようとして起こした戦争で、1588年の7月から8月まで、英仏海峡でいくつもの戦いが繰り広げられました。
しかし、エリザベス1世の下でイギリス海軍は力を保ち続け、また幸運な嵐に救われたこともあり、イギリスはこの海戦に勝利。
スペインはその後も何度か戦争を仕掛けましたが、これらはすべて失敗したのです。
イギリス黄金期(エリザベス期)の君主として
エリザベス1世の治世は、単に彼女の名前を冠して「エリザベス期」や「エリザベス時代」と呼ばれることがありますが、それだけ彼女の影響力が大きかったことを示しています。
- 対外的には → スペインの無敵艦隊を破るなど国威を示す
- 内政的には → プロテスタントとカトリックの対立を終息させ国力を充実させる
ことが出来たため、シェイクスピアの戯曲に代表される文化的に豊かな時期「イギリスのルネサンス」を経験した時代となったのです。
またこの時期は、イギリスが航海、探検、そして経済的な拡大によって世界の超大国「大英帝国(イギリス帝国)」となる、基盤となったとも言えるものでした。
エリザベス女王の強力でありながらバランスのとれた治世が、黄金時代の到来を可能にしたことは間違いなく、これによって、エリザベス統治時代は「エリザベス期」と言われることさえあるのです。
エリザベス1世統治時代晩年に起こった問題と力の衰え
エリザベスの治世は長く、晩年になると様々な問題が生じるようになりました。
例えば、
- 農業の不作が続きインフレが加速した
- これによって、イギリスの経済状況と女王に対する信頼は悪化した
- 宮廷の主要人物の欲深さも頻繁に批判の対象となった
- アイルランドにおける軍事作戦が失敗して数多くの問題が生まれた
- エリザベスの寵愛を受けたロバート・デヴァルー伯が、アイルランド反乱鎮圧に失敗して失脚した結果、デヴァルー伯は復権を狙って当時のイングランドの国政を主導していた政敵ロバート・セシル排除のためにクーデターを起こすが失敗して処刑された
などです。
こういった状況もあり、エリザベス1世が一生患っていたとされる「うつ病」は、それまでにないほど深刻になり、彼女の健康は急速に悪化し、1603年3月24日、69歳で亡くなります。
そして彼女の死後、スコットランドのプロテスタント国王ジェームズ6世(スコットランドメアリーの息子)が王位を継承しました。
エリザベス1世にまつわる5つの話
父親の気まぐれとさえ言える決定によって、エリザベス1世は、自分の立場または人生が、確実に保証されているとは言い難い状態にありました。
しかしそのような逆境にも拘らず、彼女はイングランドの最も偉大なる指導者の1人として知られるほどにまでなり、その遺産は今日まで続いています。
ここからは、そんなエリザベス1世をさらに詳しく知っていくためにも、興味深い5つの話を紹介していきます。
エリザベス1世は芸術のパトロンだった
エリザベス1世時代がイギリスの黄金時代であったとされる理由の一つが、この時代に様々な芸術が花開いたためというのは触れた通りですが、実は、エリザベス1世自身も芸術のパトロンとして直接的に支援していたよう。
エリザベス1世は音楽と観劇に親しみ、1583年に宮廷で、女王のために頻繁に演劇を行う宮廷一座である「宮内大臣一座(後に「国王一座」と改名される)」を結成させています。
彼女の存在は、当時イギリスにおける芸術の発展を強く後押ししたのです。
エリザベス1世はマルチリンガルだった!
エリザベス1世は数多くの養育係や家庭教師によって高度な教育を受けました。
その結果、カリグラフィー(文字を美しく見せるための手法)や音楽に加えて語学も学び、外国語を特技として身につけ、英語、フランス語、ラテン語、イタリア語を流暢に操ったと言われます。
また、イギリスのルネサンスが花開いてイギリス国内で文学作品や芸術が発展していった当時、エリザベス1世自身も、文学作品を書いたり翻訳したりしたと言われます。
ちなみに、エリザベス1世は当時の女性としては非常に珍しい、弁論術の技能を学んで身につけており、これが後に人を惹き付け、刺激を与える演説で国民からの指示を集めた理由の一つとなったことは確かでしょう。
セルフブランディングの達人だった
国家と結婚した「処女王」としてのイメージを作ることで、「国民や民衆のために頑張る女王」のイメージを定着させ、国内において強力な支持基盤を作ったエリザベス1世はまさに、セルフブランディングの達人であり努力家だと言えます。
例えば、エリザベス1世が即位していた期間、イングランドでは25回に及ぶ国王と側近による巡幸が行われましたが、巡幸の時は馬車に乗るのを拒み、エリザベス1世は代わりに馬の背中に乗ることもあったと言われます。
当時最も巨大な海軍力の1つを撃退するキッカケとなった名言
1588年、エリザベス1世はイングランド艦隊がスペイン無敵艦隊と戦う直前にティルベリーで兵士たちを鼓舞するため演説を行いました。
その演説とは以下のようなものです。
I know I have the body of a weak and feeble woman, but I have the heart and stomach of a King, and of a King of England too, and think foul scorn that Parma of Spain, or any Prince of Europe should dare to invade the borders of my realm. I myself will be your general, judge and rewarder of every one of your virtues in the field.
私は弱くて脆い女性の身体を持っています。しかし、私は国王の心と意思を持っています。そしてそれはイングランド国王の心と意思です。スペインであろうがいかなるヨーロッパの君主に対しても、我が王国の国土を侵そうとするならば、汚れた軽蔑の念を抱きましょう。私自身があなた方の司令官、裁判官となり、あなた方の戦場での善行に報いましょう。
(引用:BRITISH LIBRARY)
この名言を演説で発した後、エリザベス1世の艦隊はスペイン無敵艦隊の半数を打ち破っていったのです。
アメリカのバージニアの名前の由来となった!?
エリザベス1世時代、ヨーロッパ諸国は、世界中に土地や富を求めて探検を行う「大航海時代」を迎えており、これはイギリスも同じです。
エリザベス1世統治下のイギリスでは、ウォルター・ローリーという人物が探検を行い、1584年、ローリーは、現在のアメリカ合衆国ノースカロライナ州デア郡のロアノーク島を探検するわけですが、この時、エリザベス女王にちなんで島を「バージニア」と命名したと言われます。
これは、処女王の英語名「バージン・クイーン(Virgin Queen)」を変化させたものだったのです。
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エリザベス1世とその生涯|大英帝国の礎を築いたイギリス女王のまとめ
イギリス史上に名君として君臨し、大英帝国の礎を築いた女王、エリザベス1世について見てきました。
エリザベス1世は、難しい状況に陥った幼少期を乗り越えて歴史的な名君にまでなった、偉大なる女性の一人です。