ウラジーミル・レーニンについて詳しく見ていきましょう。レーニン主義やロシアの革命家として歴史に名を残すソ連建国の父です。
現在のロシア連邦共和国が出来る前、ロシアはソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)として、アメリカと覇権を争っていた大国でした。
そのソ連建国の父として知られ、レーニン主義と呼ばれた思想によって、世界中へ大きな影響力を与えたロシアの革命家「ウラジーミル・レーニン」を知っていますか?
レーニンは20世紀当時、世界の流れを決定付けた人物の一人で、後世にも名を残す重要な人物です。
この記事では、レーニンの人物像をまとめた概要、生涯、他にも抑えておきたい5つのポイントの3つのパートに分けて、ウラジーミル・レーニンを詳しく見ていきたいと思います。
ウレジーミル・レーニンとは?
ウラジーミル・レーニン(1870年4月22日〜1924年1月21日)とは、ロシアの社会主義・共産主義者であり革命家、そしてソ連建国の父として知られる人物。
ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ:後の共産党)の指導者として、ロシア革命のうち十月革命(2017年)を指導。
その前の二月革命によって打倒された帝政ロシア後に結成された、臨時政府(暫定政府)を倒すクーデターを主導しました。
さらにレーニンは、世界初の共産主義政府(ソビエト政府)を打ち立て、それが後のソビエト社会主義共和国連邦の成立へと繋がったため、ソ連建国の父として、また、自身もソ連の人民委員会議議長(当時のソ連高指導者)に就任したことで、ソ連における初代最高指導者として知られます。
そして、社会主義のマルクス主義をレーニンなりに解釈した「レーニン主義」は、その後、世界中で生まれる社会主義・共産主義諸国の誕生へ大きな影響を与えていくことになりました。
ちなみに、レーニンの本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフで、1902年からペンネームとして「レーニン」を使い始めています(ロシアの革命家が筆名を使うことは珍しくなく、政府を混乱させることや、秘密警察から逃れることが目的の一つだったと考えられる)。
ロシアの革命家でソ連建国の父「ウラジーミル・レーニン」の生涯
レーニンの生い立ちと政治
ウラジーミル・イリイチ・ウリヤーノフは1870年4月22日、ロシアのシンビルスク(現在のウリヤノフスク)にて、中上流階級の家庭に生まれました。
(出典:wikipedia)
彼の父親イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフは、物理学者で上席の教育者。そして、レーニンには5人の兄妹がおり、後に全員が革命者となりました。
例えば、兄のアレクサンドルは皇帝ニコライ2世の暗殺計画に関係したとして、1887年5月に絞首刑に処せられています。
青年時代になると、成績優秀だったレーニンはカール・マルクスの著作に触れ、マルクスが唱える社会主義を基本とした政治思想に傾倒するようになり、デモに参加して暴動行為に関わったたとして、当時学んでいたカザン大学から追放処分となってしまいます。
(※)カール・マルクスはドイツの文筆家で、「共産党宣言」を記し、「暴力によるブルジョワジーの転覆」といった内容を記しているなど、解釈によっては過激な革命を通して労働者階級を解放する必要があると説いた人物。
その後、レーニンは実家に戻りましたが、社会的にウリヤーノフ家は高い地位にあったため、レーニンは法学の勉強を続けることが出来ました。
そして、1891年にサンクトペテルブルク大学の試験を学外学生として受け、なんとレーニンはその試験で全科目満点を取得。
特例として大学の終了証明書が与えられ、弁護士の資格を得ることになりました。
サンクペテルブルクへ拠点を移したレーニン
1893年、レーニンはサンクトペテルブルクに移ります。
この頃のレーニンは、すっかりマルクス主義者となっていました。
レーニン曰く、
The Marxist doctrine is omnipotent because it is true. It is comprehensive and harmonious, and provides men with an integral world outlook irreconcilable with any form of superstition, reaction, or defense of bourgeois oppression
マルクスの思想は正しく、全能である。包括的であり、調和がとれていて、迷信や反動や抑圧的なブルジョワの保身とはかけ離れた完全な世界観を提示する
(出典:marxists.org)
とのこと。
サンクトペテルブルク在住の間、ウラジーミル・レーニンは、労働者を団結させる目的で物議をかもすような論文や記事を数多く発表しました。
また、ペテルブルグ労働者階級解放闘争同盟を結成。この同盟はロシアのマルクス主義運動の要となっていきます。
ウラジーミル・レーニンの亡命と旅
1897年、レーニンは革命的活動に関わった罪で逮捕され、3年間シベリア送りとなりました。
そこでナデジダ・コンスタンチノヴナ・クルプスカヤという名のマルクス主義者と出会い、後に結婚することとなります。
(ナデジダ, 出典:wikipedia)
亡命生活中、レーニンは経済を学んで「ロシアにおける資本主義の発展」を記し、ロシアの遅れた経済を批判。
シベリアから解放された後の17年間は、ヨーロッパ中を旅して過ごしています(この間にロシアへ帰ったのは、1905年の革命「ロシア第一革命」に参加するための1回のみ)。
またレーニンは、「イスクラ」と呼ばれるロシアのマルクス主義機関紙の編集にも携わりました。
レーニンは、「ジャーナリズムが有効な政治的ツールになり得る」ことを理解しており、
- 新聞は集合的な指導者となるだけでなく、集合的な扇動者とも、集合的な主催者ともなることができる
と信じていたのです。
この期間中、レーニンに起こった重要な2つのこと
ちなみに同期間中には、その後に十月革命を指導してソ連建国の父と呼ばれるようになるレーニンにとって、重要な2つの出来事が起きています。
ロシア社会民主労働党の分裂
レーニンは当時、1898年に創設されたロシアにおける最初のマルクス主義政党である「ロシア社会民主労働党」に参加していました。
このロシア社会民主労働党内においてレーニンは、党員の一人であったユーリー・マルトフと思想の違いと権力の分散を巡って対立。
(ユーリー・マルトフ, 出典:wikipedia)
同党は1903年7・8月に開催された党大会以降、
- メンシェヴィキ(少数派の意味)
- マルトフと支持者によるグループ(社会主義右派)
- ブルジョワ階級、そして中流階級が権力を握るべきだと主張した
- ボリシェヴィキ(多数派の意味)
- レーニンと支持者によるグループ(社会主義左派)
- プロレタリア階級(労働者)こそが力を持つべきだと主張
の2つに分裂していったのです。
ちなみに、レーニンの「社会主義体制の下では、全ての人が交代で統治をする。そして最終的には誰も統治しないという状態に人は慣れるだろう」という言葉が、上記の主張を良く反映しています。
十月革命に向けた準備
さらにこの間、レーニンは同じような考え持つ人を集い、革命に向けた準備活動も始めていきます。
彼が思い描いた革命の目的は、プロレタリア階級(プロレタリアート)によって支えられた社会主義国家であるロシアを作ること。
そのレーニンが描いた理想社会を実現するために、地方に暮らす貧しい農民だけでなく、知識人も政治的な理論を提示して支援する形で革命へ参加することを求めたのです。
これは、レーニンが信じる、
- 「革命的な理論がなければ、革命的な運動も存在しない」
という思想に依るものです。
レーニンとロシア革命
第一次世界大戦のほとんどの期間をスイスで過ごしたレーニンですが、1917年にロシアへ戻り、1917年に起きたロシア革命の一局面である「十月革命」を指導します。
この革命の後、ロシア帝国最後の皇帝(ツァーリ)、「ニコライ2世」が退位した後に打ち立てられた「ロシア臨時政府」が打倒されました。
ロシア臨時政府とは、1917年の二月革命によってロシア帝国が打倒された後に成立した暫定政権。第一次と第二次がある。
第一次は自由主義者に加えて社会革命党とレーニン率いるボリシェヴィキのライバルであったメンシェビキが参加した連立政府(1917年3月〜5月5日)。第二次は社会主義者であったケレンスキーを首班とする連立政府(1917年5月5日〜10月25日)。
事実上の独裁者となったウラジーミル・レーニン
今まで「権力を持つ人は皆、その毒に侵される」と発言していたレーニンですが、彼はここで「人民委員会議議長」に就任し、事実上の独裁者となります。
しかしレーニンはこの事実に対して、
All our lives we fought against exalting the individual, against the elevation of the single person, and long ago we were over and done with the business of a hero, and here it comes up again: the glorification of one personality. This is not good at all. I am just like everybody else.
我々は一生をかけて、特別な個人の排除のために戦ってきた。遠い昔、人々の間にヒーローなどはいなかったのだ。しかし、またここに来てしまった。ある個人の性格の神格化、これは全く良いことではない。私は誰とも変わらない、普通の人間である。
と批判的な思いを口にしています。
ロシア内戦の勃発
十月革命以降からソ連が建国される1922年までの間、ロシアではボリシェヴィキ側の「赤軍」と、元皇帝軍のメンバーや貴族主義者、さらにレーニンに反対する社会主義者らで構成された「白軍」との間で、激しい内戦「ロシア内戦」が繰り広げられました。
この内戦中の中でもレーニンは平然とした態度を崩さず、次の言葉を残しています。
We fully regard civil wars, i.e., wars waged by the oppressed class against the oppressing class, slaves against slave-owners, serfs against land-owners, and wage-workers against the bourgeoisie, as legitimate, progressive and necessary.
内戦が起こっていることは理解している。これは抑圧された側の抑圧する側に対する戦争、奴隷達による奴隷の所有者に対する戦争、農奴による地主に対する戦争、賃金労働者によるブルジョワジーに対する戦争なのだ。つまり正当で、革新的で必要な戦争なのである。
(出典:marxists.org)
そう、レーニンは「白い手袋をつけて革命を行うことはできない」ことをしっかりと分かっていたのです。
結局、この内戦は最終的に赤軍側の勝利によって終了し、またこの内戦に乗じてボリシェヴィキを妨害するように介入してきたメンシェヴィキと社会革命党は、追放されて力を無くしていきました。
ちなみに、このロシア内戦の期間中にレーニンは、他国における革命(世界革命)を促すことを目的とした組織「第3インターナショナル(コミンテルン)」を結成しています。
ソ連建国からレーニンの死
ロシア内戦が終了すると、ボリシェヴィキは1922年に公式にソ連を打ち立てます。
国家の最高指導者となったレーニンはまた、疲弊した国民と経済を救済するために、自由市場を一部に導入した「ネップ(新経済政策)」を打ち出しました。
そのため、計画経済を基盤とする共産主義への完全以降は、ソ連建国後に直ぐ起きたのではなく、思ったよりゆっくりと進んでいくことになります。
さらにレーニンは、銀行や生産施設を国有化したり、健康保険機関を設立したり、女性の市民権を確立したり、また私有地だった土地を農民に分割して与えるなどの政策を実行していきました。
しかし、ソ連が建国されてこれから社会主義・共産主義を基盤として理想的な国家を作っていこうとした矢先、レーニンは脳卒中を経験します。
以前レーニンは、
- 「病気になった時に一番大事なのは、心を強く保つことだ」
と語っていましたが、度重なる脳卒中により、政治活動に割くことのできる時間はどんどん少なくなっていきました。
そのため、ソ連が建国されてから間もなく、レーニンはモスクワ郊外の田舎の家で時間を過ごすようになり、1924年の1月21日に亡くなったのです。
ウラジーミル・レーニンに関する興味深い5つの話
ソ連建国の父「ウラジーミル・レーニン」の生涯を見てきましたが、レーニングをさらに理解するためにも知っておきたい、興味深い5つの話を紹介していきます。
レーニンは亡くなるまでに4回の脳卒中を起こした
レーニンの人生最後の数年間は脳卒中との戦いだったと言えるでしょう。
1922年に最初の脳卒中が起きてから亡くなる1924年までの間、以下の様に4回もの脳卒中を起こしたのです。
- 1922年5月
- 最初の脳卒中によって右半身麻痺
- 1922年12月
- 2度目の脳卒中によって容体が急速に悪化
- 静養を命じられると同時にレーニンの影響力が一気に弱まる
- 1923年3月
- 3度目の脳卒中によって失語症を発症してほぼ廃人状態となる
- 1924年1月
- 4度目の脳卒中を起こして昏睡状態となりその日のうちに死去した
「レーニン主義」の名付けの親はメンシェヴィキのユーリー・マルトフ
マルクス主義をレーニンなりに発展させた政治思想は、「レーニン主義」と呼ばれ、その後の世界へ影響を与えました。
実はこの「レーニン主義」という名前、同じロシア社会民主労働党に所属して、後に分裂してメンシェヴィキを主導したユーリー・マルトフによって名付けられたんです。
レーニンは熱烈なマルクス主義者として、自分の解釈がマルクス主義の唯一の正しい解釈だと信じていました。
そのため、レーニンの解釈が数ある解釈の中の一解釈に過ぎないことを示すために、1904年頃、マルトフはレーニン主義という言葉を使い始めたのです。
容赦ないレーニン
自らは独裁者になるこを嫌っていたレーニンですが、彼のイデオロギーは本質的に独裁主義的でした。
そのことが良く現れているのが、ロシア内戦における政敵や将来的に危険分子となるかもしれない人たちへの対応。
レーニンは政敵達に対して、数多くの政治的圧力や逮捕、そして処刑を行っています。
さらに、レーニンの下で誕生した秘密警察「チェーカー」は、令状が無くとも無制限に市民を逮捕出来たため、多くの人々が無実の罪で逮捕されて処刑されたと言われます。
このように、容赦のないレーニンによって処刑された人々の数は全体で数十万人に上るという推計もあるほどです。
暗殺から危うく逃れた
1918年8月にモスクワで行った演説の後、レーニンは銃で撃たれて重傷を負いました。
3発の銃声が鳴り響き、そのうち2発が肩と肺に命中したのです。
しかし、他の暗殺者によるさらなる襲撃の危険性があったため、レーニンが病院へ送られることはなく、代わりに医者が呼び出されましたが、そこでの銃弾の摘出は危険すぎたために手術は行われずに銃弾は残ったままとなってしまいます。
そして、この体内に留まった銃弾が金属酸化した結果として、レーニンは晩年に思い病気を患ってしまったのではないかと言われることがあります。
一方で、この暗殺未遂事件によって大衆の同情が集まり、ロシア国内でのレーニンの人気は一気に高まったのも事実です。
ネップでは民間企業を部分的に認めた
上でも触れた通り、ソ連が建国された当初、疲弊した国民達を救済するためにネップ(新経済政策)が導入されたわけですが、この政策では、ソ連と聞いて一般的にイメージされる「完全な計画経済」だけでなく、一部自由経済も導入されました。
その自由経済とは、
- 税を納めた後の残り(余剰穀物)は市場で自由に処分することを認めた
- 一定の範囲内で私的商業(民間企業)を認めた
といったもの。
国民は作物の売買や小規模商売を通して利益を得た結果、ソ連の経済は好転していったのです。
一方で、レーニンの政敵は資本主義への寝返りだと批判しました。
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ウラジーミル・レーニン|レーニン主義で有名なロシア革命家でソ連建国の父のまとめ
ロシアの革命家でソ連建国の父「ウラジーミル・レーニン」について見てきました。
レーニンはロシアの未来に対する希望を、次の述べたと言われています。
我々は新しい、そしてより良い社会秩序を実現したいと願っている。ここでは全員が労働し、金持ちもいないし、貧しい者もいない。そしてこの新しくより良い社会は、社会主義と呼ばれるようになるのだ。