トーマス・エジソンは偉大な発明家として知られると同時に、多くの失敗を繰り返しながらも成功を掴んだ努力の人としても有名な歴史的偉人です。
「天才」や「不断の努力」という言葉が相応しい人は、歴史の中で数多く現れてきましたが、その一人は間違いなくトーマス・エジソンでしょう。
アメリカ生まれのこの発明家は、一般人には理解しがたいほどの関心を科学に寄せ、現代社会においては当たり前とされる様々な機械を発明し、人間の生活をより便利なものへと変えました。
そして、エジソンが白熱電球を実用化する過程で経験した度重なる失敗と、それでも諦めずに続けて実用化させた話は、現在でも物事を達成するためのお手本として参考にされます。
この記事では、偉大な発明家「トーマス・エジソン」について、名言も含めた基本知識、生涯、そして興味深い6つの話までを紹介していこうと思います。
偉大な発明家トーマス・エジソンとは
トーマス・エジソン(1847年2月11日〜1931年10月18日)とは、アメリカ合衆国の発明家であり起業家で、おそらく機械発明においては歴史上で最も優れた偉人(または天才)。
生涯におよそ1300もの発明と技術革新を行ったとされ、その中には蓄音機、発熱電球、活動写真(映写機の原型)など、人間社会の利便性を高める重要な発明も含まれました。
また、幼少期には正規の教育(学校教育)を受けず、代わりに図書館などに篭り独学で学び、度重なる失敗にもめげずに数々の発明を生み出してきた努力家として有名です。
なかでも、発熱電球を完成させるために「2万回もの失敗を重ねた」という逸話と、その失敗に対するエジソンの名言、
私は、実験において、失敗など一度たりともしていない。これでは、電球は光らないという発見を、いままでに、2万回してきたのだ。
は、「失敗しても諦めずに続ければいつかは成功する」という例として、よく挙げられます。
一方で、その業績から発明家としての側面が強調されますが、実は起業家としても優れた人物であり、J・Pモルガンから巨額の出資を受けて、現在のゼネラレル・エレクトリック社(GE)の前身「エジソン・ゼネラル・エレクトリック会社」を設立。
それに加えて他にも複数の起業を行っており、その数は合計14社にもなるなど、有能な実業家でした。
このように、エジソンは富を築いただけでなく、成功するまでのストーリーが共感を呼び、世界中の人々から未だに尊敬されて好感を持たれる歴史の偉人なのです。
トーマス・エジソンの生涯
生い立ち
トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison)は1847年、オハイオ州マイランにて、7人兄弟の末っ子として誕生しました。
(出典:wikipedia)
物事に対する異常な関心を示したエジソン
そして小学校へ入学すると、異常なまでに「何事にも疑問を抱いて知りたがる」ちょっと変わった子供であったトーマス少年は、当時の先生を悩ませ始めます。
トーマス・アルバ少年がした質問は、
- 1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?
- A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ばないの?
(引用:wikipedia)
といった、ほとんどの人が答えを持ち合わせていないようなものばかりでした。
このようにして、エジソンは教師を質問攻めにして困らせ続けた結果、ついに教師はエジソンに対して「混乱している(腐った)子」と吐き捨てたのです。
これは「頭が悪い」という意味をほのめかす、19世紀アメリカの言い回しです。
退学して独学を始めたエジソン
けれどもエジソンの母親は学校のエジソンに対する評価を認めず、学校へ入学してから数ヶ月足らずでエジソンを退学させ、自宅を中心とした教育に切り替えました。
ちなみに、エジソンは当時を振り返って後に次のように言っています。
私が母をがっかりさせたくない様子だったので、母は「この子は成功する」と自信を持っていた
とにかく、母の支援に始まり家族の理解に恵まれたエジソンは、自宅で独学を始めるようになり、それによって、特に化学に強い興味を示して実験に夢中になっていきました。
そして1854年、トーマス少年がまだ7歳だった時、エジソン一家はミシガン州のポートヒューロンへ引っ越します。
この頃、エジソンは列車内でお菓子や強い好奇心が高じて自ら作った新聞を販売したり、街で野菜を売ったりして働くようになり、そこで稼いだお金を元に、仕事以外の時間で「定性分析(検査される物質がどんな成分から成るかを確かめる化学分析)」や、化学実験を繰り返して知的好奇心を満たしていきました。
電信との出会い
エジソンが15歳の時、当時働いていた鉄道の駅で彼は、列車に轢かれそうになっていたジミー・マッケンジーという名前の幼い男の子を救います。
実は、この男の子の父親は駅長をしていたJ.U.マッケンジー。
J.U.マッケンジーはエジソンに感謝し、お礼としてエジソンに「電信」の技術を教えます。
エジソンはモールス信号など、電信(符号の送受信による電気通信)に関するあらゆる技術を瞬く間に習得。
1864年には、駅の夜間電信係として働いていた一方、あまりにも退屈だったために時計を作り、電信機が時間通りに自動で電信を送る機械を発明しています。
そして1866年、19歳の時には夜間勤務が出来るAP通信社(Associated Press)に就職。
夜間勤務は一人で行う勤務のため、(勤務中に)自分の実験が出来るというのが、就職の理由でした。
初の特許取得
しかし1867年、(勤務中に)実験をしていたところ硫酸をこぼしてしまい、その硫酸が床を通して上司のオフィスに漏れ落ち、エジソンは翌日にAP通信を解雇されてしまいます。
けれども、それから2年も経たないうちにエジソンは実験を成功させ、電気投票記録機を発明して1869年6月1日に初の特許を取得。
電気投票記録機は「議会における賛成票と反対票をより迅速に、より効率的に集計する」機械で、この発明で得た収入を基に、エジソンはさらなる発明を行うための事業を起こしました。
結婚、そして発明王へ
発明家として有望な将来を約束されていたエジソンは1871年、メアリー・スティルウェルと結婚(3人の子供を授かるが、1884年にメアリーは29歳で他界してしまう)。
しかし、結婚もなんのその、エジソンはより一層発明に力を注ぎました。
(出典:wikipedia)
初めにエジソンが行ったのは、これまでの技術に改良を加え、新しい電信技術の利用法を開拓することでした。
そして、四件の送受信を同時に行うことのできる四重電信機を発明し、1874年にウェスタン・ユニオン社に1万ドル(現在の価値で数千万円)で売却。
これによって得たお金を元にしてエジソンは、ニュージャージー州のメロンパークに土地を購入して数人を雇用し、そこへ発明のための研究開発を行うメロンパーク研究室を設立しました。
蓄音機を始めとした多くの発明
そして1877年、エジソンは蓄音機を発明します。
(出典:wikipedia)
当初の蓄音機は音質が悪く、動作時間も短い未完成なものでしたが、それでもこの発明はアメリカ人の心を捉えて名声を獲得。
さらに、エジソンは集まった優秀な人材を一つの大きなチームとして活用するためにマネジメント面へ注力し、メンローパークで実験や研究を指揮しながら、そこで生み出された発明品全てを自らの名義で特許申請。
その結果、生涯を通してエジソン名義で取得された特許は1000件を優に超えるまでになっていき、電話や活動写真など、多くの発明が生まれると同時に商品化されていったのです。
白熱電球の発明
1878年からは、エジソンの発明の中でも非常に有名な「白熱電球」の研究に取り掛かります。
実は当時、イギリスの学者「ジョゼフ・スワン」がすでに白熱電球を発明していましたが、その点灯時間は実用化に耐えられるほど十分に長くはありませんでした。
そこでエジソンは、有名な「2万回にも上る実験」を繰り返して、白熱電球の点灯時間を45時間にまで引き延ばすことに成功(電球の型、電流の使い方、その製作に必要な材料を変えることで成功させた)。
1879年には発熱電球の実用化を発表したのです。
このような背景から、エジソンは厳密には白熱電球の発明者ではないものの、実用化を成功させてアメリカ中に普及させた功績から、白熱電球の発明者として名声を得ることになったと言えるでしょう。
また、この過程でエジソンは、1878年にゼネラレル・エレクトリック社の前身となる会社を設立しています。
再婚から晩年
1884年、エジソンはマイナ・ミラーという女性と再婚し、マイナとの間にさらに3人の子供をもうけましたが、それでもエジソンの生活の中心は発明でした。
事業家として会社経営も続けならが、1891年には映画産業の誕生に繋がった「キネトスコープ(映画を上映する装置)」と「キネトグラフ(動画撮影機)」を発明。
そして、晩年には鉱山経営などにも挑戦しますが、発明を商品化していく事業とは勝手が違ったのか失敗。
その後は、死者との交信に興味を持って実験を続けますが、1931年10月18日、84歳の時にエジソンは他界しました。
トーマス・エジソンにまつわる6つの興味深い話
トーマス・エジソンについて、その生涯を見てきましたが、ここからはあまり知られていないエジソンにまつわる話を6つ紹介していこうと思います。
すでに電気自動車を開発していた!
環境問題への関心が高まる中、近年でこそ電気自動車(EV)の開発が盛んになってきていますが、実は1900年代初頭、すでにエジソンはEVこそが輸送機関の未来形と考え、実際にEVを開発していたんです。
1910年にはプロモーション活動として、約1600kmの走破をEVで達成しています。
しかし残念なことに、一度は人気を博したものの、EVはその価格から需要がなくなり、その後はガソリンをエネルギーとする自動車が主流になってしまいました。
(参照:National Geographic)
偉大な発明家エジソンを負かした日本人がいる
トーマス・エジソンは偉大な発明家として、その名前を歴史に残すなど、生涯の中で特許として登録された発明は1093件あるとされています。
しかし、このエジソンの記録を破った日本人がいることを知っていますか?
その日本人の名は山崎舜平(やまざきしゅんぺい)。
山崎舜平氏は、工学博士であり株式会社半導体エネルギー研究所の代表取締役を務める人物で、2003年にエジソンが持っていた記録を塗り替え、2004年9月28日は、ギネスブックに「特許取得件数世界一」として認定されています。
ちなみに、2016年6月30日の時点では、累計特許取得件数が11,353件にもなっているそう(参照:産経ニュース)。
ヘンリー・フォードとトーマス・エジソンの関係
ヘンリー・フォードと言えば、自動車会社として有名な「フォード・モーター」の創業者。
このフォードは若い時、デトロイトにあったエジソン照明会社で技術者として働き、勤務時間以外にガソリンで走る自動車を造る実験をしていたことで知られ、また、1896年にフォードと初めて会ったエジソンは、フォードに頑張るよう伝えたと言われます。
そして、フォードが個人向け自動車を発明した後、この二人は再会してすぐに意気投合。
休暇を一緒に過ごしたり、時には他の友人も誘ってドライブに出かけ、国中を旅して周るほど仲が良かったそうです。
メンロパークの魔術師
トーマス・エジソンが広く注目を集めた最初の発明が蓄音機であることは、エジソンの生涯の部分で触れた通り。
エジソンは1877年、ニュージャージー州メンロパークにあった自分の研究所で最初の蓄音機を完成させます。
この蓄音機は、音楽や音声を生で再生するのではなく、「録音再生出来る」というのが最大の特徴であり発明でした。
このことはそれまでの一般常識を覆し、多くの人にとっては魔法のように見えたのでしょう。
蓄音機の発明によってエジソンは、「メンロパークの魔術師」と呼ばれるようになったのです。
ちなみに、蓄音機のテストをするにあたってエジソンは、『メリーさんの羊』を録音したため、この子守唄が蓄音機で初めて録音された音となりました。
電流戦争の勃発
1880年代後半、エジソンが電力事業を立ち上げて間もない頃、エジソンは直流送電で動作する電化製品を開発しました。
その一方で、ジョージ・ウェスティングハウスとニコラ・テスラという発明家は、交流送電の方が効率が良いと主張。
両者の主張は真っ向から対立し、これは俗に「電流戦争」と呼ばれる両者間の敵対関係となっていきます。
(ジョージ・ウェスティングハウス, 出典:wikipedia)
この電流戦争の中でエジソンは、交流送電が直流送電より危険だという(誤った)印象を人々に植え付けるプロパガンダ工作のために、野良犬や野良猫等の動物を交流電流で殺す公開実験まで行っています。
一方でテスラ側は、人体に交流電気を流すショーを行って安全性を主張。
この「戦争」では結局、エジソン側が敗北してしまいました。
電車でさえ化学実験を行なった
エジソンは若い頃、電車内でキャンディーや新聞の売り子として働いていたことは有名ですが、それだけでは彼の好奇心を抑えることは出来ません。
エジソンは車内にこっそりと化学実験の道具を持ち込んで、休憩時間に実験を楽しんでいたという話があるんです。
しかし残念なことに、ある時この実験で事故を起こし、それ以来実験道具を持ちこめなくなってしまったんだとか。
エジソンの化学実験に対する情熱を物語る逸話です。
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トーマス・エジソンとは?発明と失敗を多く繰り返した偉大な発明家のまとめ
トーマス・エジソンは、アメリカ生まれの偉大な発明家であり、実は事業家としても優れた人物でした。
蓄音機や発熱電球など、彼による多くの発明品はそれ以降の人間の生活を便利にし、現代社会を動かす上で重要な礎となっていきました。