オードリー・ヘップバーンの生涯と人生を見ていきましょう。彼女のプロフィールや歴史をダイジェストで追いながら確認していきます。
世界中の俳優や女優が目指すハリウッドからはこれまで、数多くの名優たちが誕生してきました。
その名優の一人が、「ティファニーで朝食を」や「ローマの休日」で有名なオードリー・ヘプバーン。
彼女はハリウッドにおける永遠のアイコンであるとともに、ハリウッド史のみならず世界の映画史上で最も多くのファンを抱えた名女優の一人と言え、さらに慈善活動家としても記憶されています。
この記事では、オードリー・ヘップバーンの生涯と人生を知るために、簡単なプロフィールと共に、ダイジェストで歴史を追っていきたいと思います。
オードリー・ヘプバーンとは?《プロフィール》
オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn, 1929〜1993年)とは、ベルギー生まれで国籍的にはイギリスの女優でファッションアイコンであり、そして慈善家。
特にハリウッドの黄金時代と呼ばれる20世紀半ば頃にアメリカで活躍したことで知られ、「ティファニーで朝食を」や「ローマの休日」は、オードリー・ヘップバーンを代表する有名な作品です。
また、その美しさのみならず高い演技力、女優としてのカリスマ性からハリウッド史上最高の名女優の一人に数えられ、1999年に公表された「AFIアメリカ映画100年シリーズ」の中では最も偉大な女優50選のうち第3位にランクインされるなど、未だに多くのファンを抱える偉大な歴史的女優です。
元々、バレエで才能を発揮していたヘップバーンは、不運にも第二次世界大戦に巻き込まれ、成長期にバレリーナの体を作るための十分な栄養が取れずに、練習も満足にできなかったことから、女優へと転身することを余儀なくされます。
しかし、イギリスで舞台女優や映画女優として歩み出し初めてからまもない22歳の時、彼女はブロードウェイミュージカル「ジジ」の主役の座を勝ち取り、そして一躍有名になりました。
さらに、それからわずか2年後、彼女は「ローマの休日(1953)」で、有名な俳優グレゴリー・ペックと共演。
1961年には、「ティファニーで朝食を」で主役のホリー・ゴライトリーを演じ、女優としてはもちろんのこと、新しい時代のファッションアイコンともなりました。
また、晩年は女優業からはほとんど手を引き、ユニセフの慈善事業に後半生を捧げたことでも知られます。
ちなみにオードリー・ヘプバーンは、エミー賞、トニー賞、アカデミー賞、そしてグラミー賞の全てを受賞した経験のある数少ない女優の一人です。
オードリー・ヘプバーンの生涯の歴史をダイジェストで追ってみよう
オードリー・ヘップバーンの生い立ち
オードリー・ヘプバーンは1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルで生まれました。
ただし、父のジョゼフはイギリス・オーストリア系だったこともあり、この時点でイギリス国籍も有することになります。
ヘプバーンは幼いころからその美しさと優雅さ、そしてエレガントな立ち振る舞いで有名な少女でした。
(出典:wikipedia)
1935年に父ジョゼフは過激なナチズムの信奉者となって家族を捨てて家を出て行ったこともあり、同年には母の故郷であるオランダのアーネムへと移り、1937年には母と一緒にオードリーはイギリスの南東部のケントに移住し、そこで私立学校へ通い始めます。
それから2年ほどが経った1939年、第二次世界大戦が始まった頃に、再度母と共にオランダのアーネムへ戻り、大戦中はオランダのアーネム音楽院に通い、通常学科に加えてバレエを学びました。
しかしナチスがオランダに侵攻すると、オードリーと母エラの生活は困窮してしまいます。
実際、生活を支えるためにオードリーは戦時中、秘密のメッセージの運び屋としてレジスタンス運動に協力したこともあったと言われるほどです。
バレエを諦めて女優への転身を決心する
5歳からバレエを始め、アーム音楽院でさらに深くバレエを学んだことで、オードリー・ヘップバーンはバレエでのキャリアを模索し、追求したいと考えました。
1945年に第二次世界大戦が終われると、母と一緒にオードリーはオランダのアムステルダムへ移り、そこでソニア・ガスケルという名バレリーナの下でバレエを学び、当時のオランダにおいて将来を渇望されるバレリーナにまでなっていきました。
(ソニア・ガスケル, 出典:wikipedia)
そして1948年には、当時のイギリスバレエ界で活躍していたマリー・ランバートの下で学んでさらに実力を伸ばすために、オードリーはイギリスのロンドンへ渡ります。
しかし、第二次世界大戦に巻き込まれ、成長期にバレリーナの体を作るのに十分な栄養が取れずに練習も満足にできなかったため、バレーの舞台における主役「プリマ・バレリーナ」になるのは難しいと指摘されてしまいます。
その結果、オードリーはバレリーナではなく、同じ舞台で活躍出来る女優への転身を決心したのです。
ところが、この転身が功を奏し、1948年にオードリーはすぐにミュージカル「ハイ・ボタン・シューズ」のコーラスガールとしてロンドンで初めて舞台に立ち、その後も「ソース・タルタル(1949)」のコーラスガール、また「ソース・ピカンテ(1950)」では脇役を演じるなど、着実に実績を積んでいきました。
さらに1951年、ヘプバーンは「若気のいたり」で初めて映画に出演(ただし、クレジットなし)。
以後、アレック・ギネス主演の「ラベンダー・ヒル・モブ(1951)」や「若妻物語(1951)」といった映画への出演を重ねていきます。
ブロードウェイに進出してそのままハリウッドへも進出!
1951年、彼女が22歳の時、美貌と実力が買われて、オードリー・ヘップバーンはブロードウェイミュージカル「ジジ」の主演を務めるためにニューヨークにわたります。
「ジジ」はフランスの作家コレットの本が原作で1900年頃のパリが舞台。十代の娘ジジが、大人の女性へと成長していく模様をコミカルに描いた作品です。
1951年11月24日に初演を迎えてからほんの数週間後、ハリウッドがオードリーを狙っているのではないかとの噂が流れるようになります。
結果的にこの噂は的中。
「ジジ」への出演からわずか2年後、彼女は「ローマの休日(1953)」で主演を務め、世界を魅了しました。
共演者は当時有名な俳優であったグレゴリー・ペックです。
窮屈な宮廷を抜け出してローマの街を楽しむアン王女を演じたヘプバーンは、観客そして批評家両方から絶賛され、さらにこの演技で彼女はアカデミー賞主演女優賞を受賞しました。
翌年、オードリーはブロードウェイに戻り、舞台「オンディーヌ」でメル・ファーラーと共演。
「オンディーヌ」は、水の精オンディーヌが、ファーラー演じる人間の男性と恋に落ちるという物語で、痩身でしなやかな体格とバレエで培った動きを生かし、オードリーは叶うことのない恋に落ちてしまった妖精を美しく演じ切ります。
この役でオードリー・ヘプバーンは1954年のトニー賞の主演女優賞を獲得。
また、舞台では結ばれずに悲しい別れに直面するオードリー・ヘップバーンとメル・ファーラーですが、現実では恋に落ち、1954年9月25日にスイスで結婚しました。
映画スターとなったオードリー・ヘップバーン
「ローマの休日」の成功後、オードリーは映画スターとして数々の名作に出演するようになります。
1954年には、大富豪の運転手の娘サブリナ役として「麗しのサブリナ」に出演。
「パリから戻ったサブリナは、昔から恋心を抱いていたデイヴィッドと仲を深めようとしますが、次第に兄のデイヴィッドのライナスに好意を抱くようになっていく」というサブリナの成長を描いたロマンチックコメディで、オードリーは再びアカデミー賞主演女優賞にノミネートされました。
さらに、ダンスも得意とするオードリーは、1957年にミュージカル映画「パリの恋人」でフレッド・アステアと共演。
これは、小さな本屋を営む主人公が、カメラマン役のアステアに見出され、美しいモデルへと成長していく物語で、このような「女性の成長物語」は、ヘプバーンの十八番とも言えます。
また、ロマンチックコメディだけでなく、オードリー・ヘップバーンはシリアスな映画にも出演しています。
1956年には、夫のファーラー、そしてヘンリー・フォンダと「戦争と平和」で共演し、「尼僧物語(1959)」では葛藤に悩む修道女ルークを演じ、アカデミー賞にノミネートされました。
そして翌年、彼女はジョン・ヒューストン監督の西部劇「許されざる者(1960)」に出演。同年には息子のショーンが生まれています。
代表作の一つ「ティファニーで朝食を」に出会う
数々の作品に出演し、それぞれで高評価を受けていたオードリー・ヘップバーンは、トルーマン・カポーティ原作の「ティファニーで朝食を(1961)」という作品に巡り会います。
この作品でオードリーは、得意とする華麗な女性の役柄に戻り、主演ホリー・ゴライトリー役を演じました。
ニューヨークで自由気ままに暮らすパーティーガール(ヘプバーン)が、ジョージ・ペパード演じる売れない作家と親交を深めていくという作品です。
オードリーはこの作品での演技により再びアカデミー賞にノミネートされ、アカデミー賞へのノミネートは実に4回目となっただけでなく、この「ティファニーで朝食を」は「ローマの休日」と並んで彼女の代表作となっていきました。
オードリー・ヘップバーンの後半生
1960年以降、ヘプバーンは実に多様な映画作品に出演しました。
例えば、
- ロマンチックスリラー「シャレード(1963)」
- ケーリー・グラントと共演
- 大人気ミュージカルの映画版「マイ・フェア・レディ(1964)」
- 花屋の娘イライザ・ドゥーリトルが、イギリスの上流階級に溶け込む姿を演じる
- スリラー映画「暗くなるまで待って(1967)」
- アラン・アーキンと共演し、犯罪者からの脅迫をかわしていく盲目の女性を演じ、彼女の迫真の演技は5度目のアカデミー賞ノミネートをもたらした
などの作品が含まれます。
実生活では離婚と再婚をした
またこの頃、実生活でのオードリーは夫のファーラーと別居状態にあり、1967年には正式に別居状態であることを世界に向けて発表。
最終的に二人は1968年12月に離婚しました。
(1969年に最高した当時の様子, 出典:wikipedia)
一方で、オードリーは船旅でイタリア人の精神科医アンドレア・ドッティに出会い、当時オードリーが40歳、アンドレアが30歳であったにも関わらず、また、オードリーは離婚した直後にも関わらず、1969年1月18日に二人は結婚。
翌年にはオードリーにとって二番目の息子となるルカが生まれました。
1970年代になると女優業から徐々に遠ざかっていくようになった
70年代と80年代になると、オードリー・ヘプバーンは女優業から少しずつ遠ざかるようになります。
ロビン・フッドの晩年を描いた「ロビンとマリアン(1976)」ではショーン・コネリーと、スリラー映画「華麗なる相続人(1979)」ではベン・ギャザラと共演。
1981年にはこのベン・ギャザラとコメディ映画「ニューヨークの恋人たちで再びタッグを組みます。
しかし70年から81年までの間に出演した作品はたったの3つだけで、それまでの彼女の活躍から比べると圧倒的に出演作は減っていました。
そして1989年、映画出演としては最後となったスティーブン・スピルバーグ監督の「オールウェイズ(1989)」に出演し、映画女優オードリー・ヘップバーンとしてはピリオドを打ちます。
オードリー・ヘップバーンの晩年と遺産
晩年になると、オードリー・ヘプバーンは恵まれない子どもたちのための慈善活動に専念するようになります。
第二次世界大戦中、ドイツ占領下のオランダで過ごしたオードリーは「食べるものもないほど貧しい状態にあることがどれだけ辛いか」を経験からよく理解していたこともあり、1980年代後半に彼女は、ユニセフの親善大使となって世界中を旅するようになったのです。
ユニセフの親善大使としてオードリーが旅した国は、アジア・アフリカ・中南米を中心に50以上に上ると言います。
この慈善活動が評価され、オードリーは1992年終わりに、アメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与されました。
しかし、残念なことに授賞式を待たずして彼女はこの世を去ってしまったのです。
虫垂がんによって1993年1月20日、スイスのトロシュナの自宅にて息を引き取りました。享年63歳でした。
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オードリーヘップバーンの生涯と人生|プロフィールと歴史ダイジェストのまとめ
オードリー・ヘップバーンの生涯と人生について詳しく見てきました。
女優として大活躍した彼女は、未だに多くの人々の記憶に留まり、多くの場面で名前が挙げられます。
さらに、彼女が始めた慈善活動は、息子達のショーンとルカによって1994年に建てられた「オードリー・ヘプバーン子ども基金」を通して続けられています。