ダレイオス3世について詳しく見ていきましょう。アレキサンダー大王と戦った、古代ペルシャの王朝アケメネス朝最後の王です。
古代ペルシャに存在したアケメネス朝は、古代オリエント世界を統一するなど広大な地域を支配した王朝で、アケメネス朝ペルシャはペルシャ帝国と呼ばれることがあります。
しかし、古代ペルシャに興ったこの大帝国は、紀元前330年、当時の君主の死によって終焉を迎えることとなりました。
その君主の名はダレイオス3世。
大きな功績はほとんど無いものの、「イッソスの戦い」と「ガウガメラの戦い」において、世界史上の偉人アレキサンダー大王と対峙したことで、現在でも名前が知られています。
この記事では、そんなダレイオス3世について、その生涯を追いながら詳しく見ていきたいと思います。
まずは、ダレイオス3世に関する基本的な知識を確認することから始めていきましょう。
ダレイオス3世とは?
ダレイオス3世(紀元前380年頃〜紀元前330年)は、アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年〜紀元前330年)の最後の王(在位:紀元前336年〜紀元前330年)。
即位前の名はギリシャ側の伝承によってコドマンノス(Codomannus)と伝えられていましたが、近年の研究によってアルタシャタ(Artashata)と言うことが分かっています。
ダレイオス3世の治世は不安定でした。
行政の大部分は嫉妬深くて信頼できない総督達(サトラップ)によって行われ、住民の多くは不平不満を抱き反逆的だったのです。
一方で、ダレイオス3世は多くの功績や偉業を成し遂げていないにも関わらず、世界史に登場する人物としては比較的名前が知られています。
というのも、人類史上の偉人「アレキサンダー大王」がペルシャ帝国へ侵攻するにあたり、当時のペルシャの王として君臨し、二度に渡ってアレキサンダーと対峙したのが、このダレイオス3世だったからです。
結局、「ガウガメラの戦い(紀元前331年)」でアレキサンダー率いるコリントス同盟(注)の連合軍に破れ、逃走中に味方であったベッソスに殺害されてしまいましたが、アレキサンダーの宿敵として、歴史を語る上では比較的よく名前が挙がる人物なのです。
(注釈)コリントス同盟とは、当時のスパルタを除くギリシャの全ポリスが加盟した同盟で、アレキサンダー大王の父でマケドニア国王であった、フィリッポス2世がコリントスにて紀元前337年に結成した同盟。当初はフィリッポス2世が同盟の盟主であったが、フィリッポス2世が暗殺された後、息子のアレクサンダーが盟主の座を継いだ。
古代ペルシャの王「ダレイオス3世」の生涯
ダレイオス3世の生い立ち
アルタシャタ(後のダレイオス3世)は、アケメネス朝ペルシアの王アルタクセルクセス2世(紀元前404年〜358年)の娘「シシュガンビス」と王族の男性「アルサメス」との間に、紀元前380年頃生まれました。
成長してからは幾度かの戦いにおいて頭角を現していき、アルメニアの総督などを務めていたものの、傍系(直系から分かれて出た枝葉の系統)の出身であるアルタシャタがペルシャの王の座につくことはないと考えられていました。
宮廷内で起こった陰謀によって王に即位したダレイオス3世
しかし、紀元前338年、アルタクセルクセス2世の息子で王位を継いだアルタクセルクセス3世が死亡。
その後を継いだアルタクセルクセス3世の息子「アルセス(アルタクセルクセス4世)」も、紀元前336年に殺害されて亡くなってしまいます(他の王子達も殺害されてしまっていた)。
※この一連の死については、当時の大臣「バゴアス」の陰謀による毒殺が原因だと一般的には考えられている。
その結果、本来は王位に就くことがない傍系出身のアルタシャタが、43歳の時に王位を継承。
伝統的なアケメネス朝王名である「ダレイオス」を名乗り、紀元前336年にダレイオス3世という王が誕生したのです。
古代ギリシアの歴史家シケリアによるディオドロスの記録によれば、大臣のバゴアスが、アルタクセルクセス3世を毒殺したのに続き、王位を継承したアルセスを始めとする他の王子達を毒殺し、その後にバゴアスがアルタシャタを王に任命したとされています。
しかし現在、大英博物館に所蔵されている楔形文字の粘土板には、毒殺ではなく自然死であったとも記されており、王や王子達の死の原因については別な可能性も存在するのです。
バゴアスを殺害して地位を守ったダレイオス3世
ダレイオス3世は即位後すぐに、自らを暗殺する可能性があるバゴアスとは距離を置こうとしました。
ダレイオス3世を思い通りに操ることができないと分かると、バゴアスはダレイオス3世も毒殺しようと試みます。
一方のダレイオス3世はバゴアスの企みを察知し、逆にバゴアスに毒を盛って殺害。
これによって、新たなペルシャ王「ダレイオス3世」は、自ら不安定な帝国の主導権を握っていくことになったのです。
しかし、それまでの王達に比べ、傍系で王になることが期待されていなかった(自らも予想していなかった)ダレイオス3世には、帝国統治に関する経験が絶対的に不足していました。
ダレイオス3世は支配者としては完全に平凡な器で、ペルシャ帝国が危機的状況にあった時代にも関わらず、広大な帝国を治めるのに必要な、突出した才能や技量を持ち合わせてはいなかったのです。
ダレイオス3世下のペルシャとギリシャの衝突
フィリッポス2世とペルシャ遠征
紀元前337年、マケドニア王国のフィリッポス2世はコリントス同盟を結成して自らを盟主とします。
そしてコリントス同盟では、およそ1世紀も前に起こったペルシャ戦争(紀元前499年〜紀元前449年)の中でアテネの寺院を荒廃させたペルシャへ復讐を果たすことを誓い、ギリシャの各ポリスがマケドニア王国に兵士を派遣。
(フィリッポス2世)
その後、フィリッポス2世は臣下の将軍「パルメニオン」および「アッタロス」に指揮をとらせ、ペルシアの支配下に置かれていたギリシア人を解放する目的で前進部隊を小アジアへ向けて出兵させ、ペルシャ遠征を目指します。
しかし紀元前336年、フィリッポス3世が突然暗殺されるとペルシャ遠征は一時中断されることとなりました。
アレクサンダー大王のペルシア遠征
紀元前334年春、フィリッポス2世の後継者「アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世)」がコリントス同盟の盟主として承認され、マケドニア兵とその他のギリシャ兵からなる連合軍「マケドニア軍」を率いて小アジアへの侵攻を開始しました。
グラニコス川の戦い
アレクサンダー率いるマケドニア軍は、グラニコス川(今日のビガ川)の河畔でペルシャ軍と対峙。
マケドニア軍はこの「グラニコス川の戦い(紀元前334年)」に勝利します。
(出典:wikipedia)
一方、この戦いにダレイオス3世は姿を見せていませんでした。
まさか、アレキサンダー大王が小アジア全土の征服を目論んでいたとは知る由もなかったのに加え、自らが前線に立つことを嫌ったダレイオス3世は、総督達にこの非常事態を対処させようとしたのです。
また、グラニコス川の戦いからイッソスの戦いまでの一年半の間、アレキサンダー大王の軍に対して、実際にダレイオス3世が出陣することはありませんでした。
イッソスの戦い
そして紀元前333年、トルコ南部に位置するイッソスの街の郊外で、ダレイオス3世はついにアレキサンダー大王と直接対峙することになります。
この時、ダレイオス3世率いる軍勢は兵士の数では少なくとも「2:1以上」の比率でアレキサンダー大王の軍勢を上回っていたにもかかわらず、出し抜かれて敗北を喫します。
(出典:wikipedia)
この戦いでは、ダレイオス3世側がアレキサンダー側に不意打ちを食らわせることに成功し、当初、ダレイオス3世は安全にこの戦いを見守っていました。
しかし、マケドニア軍の攻撃によってペルシア軍の兵士が散り散りになると、戦闘用馬車に乗っていたダレイオス3世は自制心を失って逃げ出してしまったのです。
さらに、ダレイオス3世があまりにも急に遠くまで逃げ出した結果、追撃する途中でアレキサンダー3世は、ダレイオス3世の御膝元であるペルセポリスを占拠し、ダレイオス3世の身内家族を捕虜にします(但し、家族はアレキサンダーによって丁重に扱われ、捕虜の一人でダレイオス3世の娘ステタイラ2世は後にアレキサンダーと結婚している)。
ダレイオス3世はその後、家族を返してくれるよう、アレキサンダーに幾度となく文書で請願しましたが、アレキサンダーはこの訴えを退け、自身をペルシャ帝国の新たな王として認めるようにダレイオス3世へ要求しました。
ガウガメラの戦い
紀元前331年、チグリス川の上流で現在のイラク北部にあたる「ガウガメラ」において、ダレイオス3世は再びアレキサンダー大王と対峙することになります。
(出典:wikipedia)
このガウガメラの戦いにおいて、情勢的にはダレイオス3世のほうが圧倒的有利でした。
- マケドニア軍よりも圧倒的に数で上回っていた
- その数の違いは「20万 対 5万弱」と言われる
- 各部隊は秩序良く組織されていた
- 複数の総督からの援軍も参加していた
- 戦場はほぼ完璧に近い平らな場所でペルシャ軍の戦闘用馬車にとっては有利だった
といった感じで、戦力的にはペルシャ軍がマケドニア軍を圧倒していたのです。
しかし、大局的に見れば有利な状況にあったにも関わらず、一瞬の隙をついてアレキサンダー率いる部隊がダレイオス3世を目掛けて突進してきたのに驚き、ダレイオス3世は勝敗の決着がつかないうちにまたしても逃亡。
経験豊富な指揮官たちだけでなく、かつてないほど大規模に編成されたペルシア軍を見捨て、また所有物も放棄して敗走していったのです。
このガウガメラの戦いの後、アレキサンダー大王は、バビロン、スーサ、そしてペルシア帝国の都ペルセポリスを占拠することに成功。
ペルセポリスを占拠したアレキサンダーは、勝利宣言をすることも出来たはずですが、その代わりにダレイオス3世を追撃することにします。
一方でダレイオス3世は、エクバタナ(古代ペルシャにあった都市の一つ)へ逃れたと言われ、ユーフラテス川から西のペルシア帝国領地を譲る条件で、アレキサンダー大王へ再三にわたり和平交渉を試みましたが、そのたびに拒否されたと伝えられています。
逃亡中に殺害されてついに生涯を閉じたダレイオス3世
大規模な軍編成に失敗するダレイオス3世
ダレイオス3世は、アレキサンダー大王に敗北を喫した後、かつての大軍を立て直そうと試みましたが、ガウガメラの戦いの時ほど大規模な軍勢を編成することは出来ませんでした。
このことに関しては、
- ガウガメラの戦いの敗北によってダレイオス3世の権威が失墜した
- 一部の地域では、ペルシア帝国時代の統治とは異なるアレキサンダー大王が実施したリベラルな施策が支持を得るようになっていた
という2つの主な理由を挙げられるでしょう。
アレキサンダーの部隊を迎え撃つためにエクバタナを離れる
エクバタナに逃れていたダレイオス3世はある時、アレキサンダー大王の部隊が自分の命を奪うために迫って来たことを知ります。
そこでダレイオス3世は、騎兵隊や傭兵で編成された軍にとっては有利に働く中央アジアの平野バクトリアまで退却することを決定。
ダレイオス3世は軍勢を率いて山間の路を通過しましたが、それにより後続の軍の進行が遅れます。
加えてペルシア軍は、アレキサンダー大王による奇襲攻撃の恐怖に常に脅かされ続けた結果、徐々に士気が下がっていき、多くの脱走兵が現れ出しました。
反旗を翻したベッソスによって殺害されてしまう
このような状況に、ついにバクトリアの総督であったベッソスと数名の側近達は、ダレイオス3世の排除を企てます。
ベッソスと仲間達は、ダレイオス3世を縄で縛り上げて牛車に放り込んだ一方で、ペルシア軍にはそのまま進軍するように命令したのです。
それから間もなくして、アレキサンダー大王が率いる小規模で機動性に富んだ部隊が追いつくと、ペルシア人達はパニックに陥りました。
結果、ベッソスと他の首謀者達はダレイオス3世に投槍で傷を負わせ、死亡するまでそこに放置。
(出典:wikipedia)
その後ほどなくして、牛車のなかでダレイオス3世が死んでいる(あるいは瀕死の状態にあった)のをマケドニア兵が発見。
生きたままダレイオス3世を捕えることを望んでいたアレクサンドロス3世は、その知らせに落胆しました。
この時、ダレイオス3世は享年50歳だと考えられています。
ダレイオス3世の死後とアレキサンダー大王
アレキサンダー大王は、牛車のなかのダレイオス3世の屍を目にした後、印章の指輪をダレイオス3世の指から外し、ダレイオス3世の亡骸をペルセポリスへ送り返して盛大な葬儀を執り行います。
また同時に、先祖達が眠る王家の墓にダレイオス3世を埋葬するように命令しました。
(出典:wikipedia)
先代の王ダレイオス3世に勝利し、正式な弔いを行ったことにより、アレキサンダー大王のペルシアにおける覇権は公のものとなったのです。
さらに、アレキサンダー大王は紀元前324年、ダレイオス3世の娘スタテイラ2世と結婚します。
一方で、ダレイオス3世を殺害した後、ベッソスはアルタクセルクセス5世を名乗って「王位継承」を自称し始めました。
しかしその後、アレキサンダー大王によってベッソスは捕えられて処刑された結果、アレキサンダー大王は名実ともにペルシャ帝国の全権を握ることとなったのです。
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ダレイオス3世|アレキサンダー大王と戦った古代ペルシャの王のまとめ
古代ペルシャに興ったアケメネス朝最後の王で、アレキサンダー大王とも戦ったダレイオス3世について見てきました。
当時の歴史については、アレキサンダー大王視点から語られることが多いですが、ダレイオス側についても見ていくと、さらに理解が深まります。