フランスの歴史的事件と出来事を紹介していきます。簡単に理解するためにも、ケルト人の到来から現在のフランスである第五共和制が発足するまでの、重要な出来事を17個確認していきましょう。
西ヨーロッパに属する主要な国の一つフランスでは、大陸の一部であるということもあり、古来より多くの民族グループが行き交いしてきました。
そのため、長い時間の中でフランスは、異なる勢力に支配されるというのを何度も繰り返すなど、比較的複雑な歴史を持っています。
この記事では、そんなフランスの歴史を理解するためにも、重要な17個の歴史的事件と出来事を紹介していこうと思います。
- フランスの歴史1:ケルト人の渡来
- フランスの歴史2:ローマ帝国によってガリアが征服される
- フランスの歴史3:ゲルマン民族の大移動によるガリア侵入
- フランスの歴史4:クロヴィス1世によるフランク族統一
- フランスの歴史5:カール大帝の即位
- フランスの歴史6:西フランク王国の成立 西暦843年
- フランスの歴史7:ユーグ・カペーの即位とフランス王国の開始
- フランスの歴史8:尊厳王「フィリップ2世」の統治
- フランスの歴史9:百年戦争
- フランスの歴史10:フランス革命
- フランスの歴史11:ナポレオン戦争
- フランスの歴史12:繰り返される共和制・王政・帝政
- フランスの歴史13:パリ・コミューンの発足
- フランスの歴史14:ベル・エポック
- フランスの歴史15:第一次世界大戦
- フランスの歴史16:第二次世界大戦と第四共和制の発足
- フランスの歴史17:第五共和政発足から現在のフランス
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- フランスの歴史的事件と出来事|ケルト人到来から第五共和政発足までのまとめ
フランスの歴史1:ケルト人の渡来
鉄器時代の中期頃、紀元前800年頃から、ケルト人と呼ばれる民族グループが現在のフランスとその周辺地域へ大量に移住し始めました。
彼らは、その後数世紀にわたって、現在のフランス、ベルリー、スイスおよびオランドとドイツの一部をまたぐ「ガリア」と呼ばれる地域を支配したのです。
そのため、ケルト人に属するグループの中でも、このガリア地域に住むケルト人たちは、後世において「ガリア人」と呼ばれることとなりました。
フランスの歴史2:ローマ帝国によってガリアが征服される
当時、ヨーロッパを中心に力をつけていた共和制ローマは、ガリア地域を征服するために紀元前58年、ユリウス・カエサルを将軍に、大規模な侵攻作戦を開始しました。
これには、ガリア人による他の地域への侵略や、ゲルマン人のガリア地域流入を防ぐ目的もありました。
そして、ガリアに暮らしていたガリア人達は紀元前52年、アレシアの戦いでユリウス・カエサルが率いるローマ軍に敗北。
紀元前51年から50年までにガリアは、共和制ローマによってほとんど制圧され、その後、ガリア地域とガリア人のローマ化が進み、西暦1世紀の半ばにはガリア人の貴族階級がローマ帝国の政治に参加するようになるなど、帝政になったローマ帝国によって西暦486年まで支配が続きました。
フランスの歴史3:ゲルマン民族の大移動によるガリア侵入
5世紀初頭、ゲルマン人がライン川を渡って西方に移動するゲルマン民族の大移動が起こり、多くのゲルマン人がローマ帝国の領内に侵入。
この結果、ローマ帝国はゲルマン人の定住と自治を認め、ゲルマン民族に含まれるフランク族は北部に、ブルグンド族は南東部に、西ゴート族は南西部(主に現在のスペインに当たる地域)に定住を開始。
このゲルマン民族の侵入によって、その後間もなくしてローマ帝国は支配力を失っていきます。
フランスの歴史4:クロヴィス1世によるフランク族統一
ローマ帝国時代後期、ローマ領内に侵入したゲルマン人の一部「フランク族」がガリア地域に流入。
(出典:wikipedia)
その地域で新たな勢力として台頭してきたフランク族の中でも、後に「クロヴィス1世」と呼ばれる人物が、ライン川北岸のフランク人達を統一し、481年には「フランク王国(現在のフランス北東部、ベルギーにあたる地域にあった)」の国王となります。
そして、486年にはガリア北部を支配していたローマ勢力を破り、ここにガリア地域はフランク王国の支配下となったのです。
ちなみに、クロヴィス1世はフランク王国の首都をパリに定めたことから「現在のフランスの基礎を築いた人物」と評価されることもあります。
フランスの歴史5:カール大帝の即位
クロヴィス1世から繋がるフランク王国最初の王朝は、メロヴィング家(クロヴィスの祖父メロヴィクスにちなむ)でした。
このメロヴィング朝が衰退すると、貴族階級のカロリング朝がフランク王国の王朝として取って代わります。
そして、カロリング朝を開いたピピン3世の息子カール1世(シャルル1世)は、768年にフランク王国の国王となり、全方向に領土拡大を行って、フランス王国の最盛期を実現させました。
結果、800年12月25日、ローマ教皇から西ローマ皇帝の帝冠を与えられ、これによってカール1世はまた、初代神聖ローマ皇帝ともなったのです。
また、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、カール大帝と呼ばれるカール1世は「ヨーロッパの父」とも目されます。
フランスの歴史6:西フランク王国の成立 西暦843年
カール大帝が814年に亡くなってカール大帝の三男ルートヴィヒ1世が後を継いでから少し経った後、フランク王国では相次いで内乱が発生しました。
そして、ルートヴィヒ1世の死後、その遺子であるルートヴィヒ(後のルートヴィヒ2世)、ロタール、カール(後のカール2世/シャルル2世)がヴェルダン条約を結んでフランク王国を3分割しました。
この結果、東フランク王国(ルートヴィヒ2世)、中部フランク王国(ロタール1世)、西フランク王国(シャルル2世)の3つの王国が誕生。
中でも、カール2世が統治するフランク王国西部に誕生した西フランク王国は、現在のフランス西部の大部分にあたる地域でした。
フランスの歴史7:ユーグ・カペーの即位とフランス王国の開始
現在のフランスにあたる地域で分裂が繰り返された後、西フランク王国のカロリング朝後期の9世紀末から3度王位についたロベール家の出身である「ユーグ・カペー(カペー朝の始祖)」は、ライバルのロレーヌ公シャルルを倒し、987年、西フランク王国の王に即位。
当時の西フランク王国は、概念上は大国だったものの、勢力は弱小でした。
しかしその後、時間をかけて近隣の地域を徐々に併合し、中世には大国フランス王国となっていき、800年以上もフランスの王権を保つほどになっていったのです。
ちなみに、このユーグ・カペーの王位継承をもってフランク王国は終焉し、これ以降は「フランス王国」が始まったとされるのが一般的です。
フランスの歴史8:尊厳王「フィリップ2世」の統治
フランス王家であったカペー家は、10世紀にフランス王に選ばれていたものの、他の有力諸侯(例えばノルマンディー公など)とほとんど変わらない実権しか持っていませんでした。
そして、12世紀後半には、ノルマン・コンクエストによってイングランドへ進出したノルマンディー公が、イングランド王を兼ねて強力な存在になったことで、イングランド王がフランス王より広い地域を「フランス」に領有する状況が起こりました。
それに対して、カペー朝第7代の王に即位したフィリップ2世は、抗争を繰り返す中でイングランド領の一部を奪還して形勢を逆転。
また、南フランスで台頭していたキリスト教の異端アルビ派を討伐するためにアルビジョア十字軍を結成して、現在の南フランスと北イタリアへ進軍すると、そのままの勢いで現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリアを領土として抱えていた神聖ローマ帝国にまで王権を及ぼすようになりました。
この結果、フィリップ2世はフランス最初の偉大な王と言われ、「尊厳王」と呼ばれることとなります。
フランスの歴史9:百年戦争
ヴァロフ朝時代の1337年、フランス国内にあるイングランド王領をめぐる争いによって、イングランド王エドワード3世がフランス王位継承権を主張し、百年の長きにわたる断続的な戦争「百年戦争(1337〜1453年)」が始まりました。
その後、イングランド王ヘンリー5世がフランス軍にたて続けに勝利し、フランスの大部分の地域を征服してフランス王位継承を宣言。
これによって一時期、フランスは最悪の状況となりました。
しかしその後、有名なジャンヌ・ダルクなどの活躍もあり、フランス王位を主張するフランス軍が形勢を逆転。
最終的にイングランドは敗北し、カレー(フランスの湾岸都市)以外の大陸側の領地を全て失いました。
また、この壮大な戦争によって、現在に繋がるフランスとイギリスの国境線が決定していくこととなりました。
フランスの歴史10:フランス革命
18世紀後半に起こっていたフランス王国の財政危機は、国内に大きな民衆のうねりを発生させることになります。
それに加えて、民衆の多くが貧困で苦しんでいるのにも関わらず、ルイ16世の王妃としてオーストリアからやってきたマリー・アントワネットが対照的な浪費生活を送っていたこともあり、ついにはフランスの民衆達の怒りが爆発し、妥当フランス王家を掲げる市民革命「フランス革命」が1789年に起こったのです。
そしてルイ16世やマリー・アントワネットが処刑されると、フランスは共和制を宣言。
その後は5人の総裁から成る総裁政府と選挙により選出された機関が、1795年に実権を握りました。
ただし、それからすぐ、クーデターによって台頭したナポレオン・ボナパルトが、1799年に実権を握って執政政府が成立し、ここにフランス革命は終結します。
フランスの歴史11:ナポレオン戦争
1799年にフランスで実権を握ったナポレオンは、軍人のでだったこともあり、1803年5月からは本格的な領土拡大を目指して、ヨーロッパ大陸全体を巻き込んだ断続的な戦争を各地で起こしていきました。
この各地で発生したナポレオンが絡む戦争は総称として「ナポレオン戦争」と呼ばれます。
そして、ナポレオンは1804年5月には「ナポレオン1世」の名で自らをフランス皇帝として宣言し、ナポレオンを皇帝とする軍事独裁政権「フランス第一帝政」が始まったのです。
その後のおよそ10年間、ヨーロッパ全土では対フランスの戦争状態が続き、この中で数々の勝利を収めたナポレオンはさらに影響力を強め、フランスは領土を拡大していきました。
しかし1812年にロシア遠征が失敗に終わるとフランスの勢いは反転し、1815年のワーテルローの戦いでナポレオンはついに敗北を喫したのです。
フランスの歴史12:繰り返される共和制・王政・帝政
ナポレオンが没落して第一帝政が終わると、フランス革命によって処刑されたブルボン朝のルイ16世の後継者「ルイ18世(ルイ16世の弟)」による王政が復活(王政復古)。
しかし、フランス革命による成果を全く無視する時代錯誤の政治を行ったルイ18世に対して、再び市民達の不満が高まり、1830年には7月革命が起こって、オルレアン家のルイ・フィリップを国王とした立憲君主制の7月王政が誕生。
ただし、やはりこの7月王政下でも労働者のほとんどは抑圧されたままとなり、君主制に対する不満の高まりに連動した自由主義的な改革への動きによって、1848年には2月革命が起こって7月王政は打倒されてしまいます。
この結果、フランスでは再び共和国宣言がなされてフランス第二共和制が成立し、ナポレオン1世の甥であるルイ・ナポレオン・ボナパルトが大統領に選出されました。
しかし、それからわずか4年後、ルイ・ナポレオン・ボナパルトはクーデターを起こして独裁権力を掌握し、1852年には「ナポレオン3世」として皇帝に即位した結果、フランス第二帝政が誕生したのです。
ただ、1870年、普仏戦争(フランスとプロイセン王国の戦争)で、フランスが屈辱的な敗北を喫してナポレオ3世が捕えられると、政権に対する信頼は砕かれ、同年には無血の革命により「フランス第三共和政」が宣言されました。
フランスの歴史13:パリ・コミューンの発足
プロイセン王国によるパリの包囲攻撃、普仏戦争を終わらせた平和協定の条項、そして政府による処遇などに激怒したパリ市民の間では反対運動が増加。
この結果、自分たちを導くために、「パリ・コミューン」と呼ばれる市民による自治市会(議会)が、1871年3月26日に設立されました。
このパリ・コミューンは1871年5月28日までに、秩序回復を図ったフランス政府との間に起こった紛争の下、短期間で抑えられてしまいましたが、後の社会主義や共産主義運動に大きな影響を及ぼしたとされます。
フランスの歴史14:ベル・エポック
上で触れたのパリ・コミューンの発生などに見る市民達による社会変化は、フランスの歴史のなかでも、商業的、社会的、そして文化的に急速な発展を遂げた、「ベル・エポック」と呼ばれる時代を呼び込むことになりました。
この時代のフランスは、平和であると同時に、工業発展によって社会にも大きな変化を生み出し、また、大量消費が起こった時期でもあったため、特に首都のパリが繁栄した華やかな時代だったと言われます。
フランスの歴史15:第一次世界大戦
1914年、ドイツから要求された、ロシア・ドイツ間における紛争の中立宣言を拒否したフランスは、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリアの中央同盟国に対峙した連合国側について軍隊を動員します。
対するドイツは、宣戦布告をしてフランスに侵攻しますが、これは、イギリスとフランスの連合軍により制圧されます。
しかし、この第一次世界大戦の中でフランスの大地は主戦場となっていたこともあり、1918年にようやくドイツが倒れて降伏する頃には国は疲弊し、およそ140万人以上が犠牲になったとされています。
フランスの歴史16:第二次世界大戦と第四共和制の発足
1939年9月、フランスはナチス・ドイツの枢軸国側に対する連合国側として宣戦布告します。
しかし、1940年5月には、ドイツ軍によってフランス軍は敗北に追い込まれ、ナチスドイツによって占領されてしまいます。
北側の三分の一はドイツによって支配されたのです。
また同時期に、占領下に置かれた北部から逃れてきたフランス政府は、フランス南部のヴィシーに拠点を移し、この時にフランス政府を率いたフィリップ・ペタンは、強大な権限を持つ君主的存在として振る舞いました。
しかし1944年、ノルマンディー上陸作戦を実施した連合国側によってパリが解放され、1945年にドイツが降伏してから1年後の1946年10月には、フランス第四共和制が宣言されました。
フランスの歴史17:第五共和政発足から現在のフランス
植民地問題でこじれが生じていたこともあり、フランス第四共和制に対しては痛烈な批判が起こりました。
その結果、フランスの植民地であったアルジェリアにいたフランスの駐留軍によって、第二次世界大戦のヒーローであったシャルル・ド・ゴールの政界復帰を要求するクーデターが起こり、この影響はパリの軍中枢部にまで波及していきます。
そして、1958年6月にはド・ゴールが首相に指名され、同年9月28日には国民投票を通して新憲法が承認され、ここに現代のフランスまで続くフランス第五共和制が成立しました。
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フランスの歴史的事件と出来事|ケルト人到来から第五共和政発足までのまとめ
フランスの歴史の中で起こった重要な事件と出来事を17個紹介してきました。
この17個の出来事を追っていけば、フランスの歴史についてある程度の流れが分かるかと思います。