インカ帝国・文明の謎と歴史に関する8つの驚くべきこと

インカ帝国・文明の謎や歴史に関して、驚くべき8つのことを紹介していきます。先コロンブス期においてアメリカ大陸最大の規模を誇ったインカ帝国や、そこに暮らした人々について見ていきましょう。

15~16世紀において、インカ帝国は現在知られている中でアメリカ大陸最大の国。

現在のペルーを中心に、アンデス山脈の頂上から麓、そして海岸線に至るまでを領土としており、今日のコロンビア、チリ、ボリビア、エクアドル、アルゼンチン、ペルーが含まれていた大帝国。世界史上でも燦然と輝く文明の一つでした。

しかし、インカ帝国は歴史上、非常に優れた技術や文化を発達させたのにも関わらず、スペインの侵略により、文化的価値のあった多くの物や知識が破壊されて失われてしまいます。

そのため、現在でも多くの謎を秘めていると同時に、歴史的に見てとても興味深い事実が存在していた文明なんです。

このインカ文明について、謎や歴史に関する興味深い8つのことを紹介していきたいと思います。

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インカ帝国・文明の謎と歴史1:マンコ・カパックがインカ文明を築いたとされる

インカ文明の起源に関していくつかの神話が残されており、始祖である皇帝を意味する「マンコ・カパック(Manco Capac)」は、マンコ・インカ(Manco Inca)、アヤル・マンコ(Ayar Manco)の名でも知られ、これら複数の神話に登場します。

また、インカ文明の神話の中でマンコ・カパックは、インカ文明の創造神ビラコチャ(Viracocha)またはインカの守護神の太陽神であるインティ(Inti)の息子であるともされます。

具体的に神話の一つを挙げるとすると、アヤル・マンコとその兄弟は文明を築く場所を探すため、インティのもとへ遣いに出されたといわれています。

彼らは上質な金で作られた魔法の杖を与えられ、「杖が地に沈む土地」へ行き、新たな都市を築くよう導きを受けたのです。

そして、杖は現在の南東ペルー、アンデス山脈ウルバンバの谷付近のクスコの地に沈んだため、アヤル・マンコはクスコにインカ文明を築いたという話です。

マンコ・カパックはこのように、神話においてインカ文明を築いた人物ではありますが、この描写は実在した人物を神話風に仕立てたものだという意見が強く、12世紀にインカ文明の礎が築かれた際には、実際に存在したマンコ・カパックの指揮の下で行われたと考えられています。

インカ帝国・文明の謎と歴史2:神々への奉納と人身御供

インカ文明は地球上最も厳しいとされる地形の一つで発展。

過酷で予測不能な環境の下、インカの宗教は太陽、水、雷など、自然界の力とつながりをもつ神々から加護を得るための儀式を、宗教上の中心と据えたのです。

また他にも、インカの重要な神々には太陽、月、星をはじめ地球や人、すべてを創造したとされるヴィラコチャや、農業に必要な雨の恵みをもたらす雷の神イリャパなどが含まれます。

(出典:Ticket Machu Picchu

そして、それら神々とより良い関係を築き、また関係を維持するためにインカの人々は祈り、食物、コカの葉、織物、動物など、様々なものを捧げ、稀に発生する自然災害や戦争時には、捕虜や子どもを生贄として捧げることもあったのです。

ちなみに、インカ皇帝は神聖な存在とされると同時に国教の主でもあり、皇帝に次ぐ聖職者として、太陽の高神官であるウィヤク・ウム(Willaq Umu)が置かれていました。

さらに、インカ皇帝パチャクテクは、太陽の神インティを最も重要なインカの神と定め、サパ・インカ(皇帝の称号)は、インティの息子であるとされました。

インカ帝国・文明の謎と歴史3:記録方法として用いられたキープ

インカの人々は書き言葉を使っていなかったため、記録を残す方法として代わりにキープ(Quipu)と呼ばれる複雑な方法を用いたと言われます。

キープとは本来、ケチュア語で「結び目」を意味し、記録方法として用いられたキープでは、長い紐に異なる色の短い紐が結び付けられています。

多種多様な色、紐、そして時には数百もの結び目が、異なる位置や形に記されており、その結び目は数を示し、十進法が用いられていたとされています。

そして、キープを作成・解読するために、キープカマヨック(キープ保持者)と呼ばれる専門職の人々がいたようなのです。

一方で、スペイン人にインカが征服された結果、このインカ文明独特のキープは失われることとなり、解読に関する知識も最後のキープカマヨックの死後途絶えることとなります。

その後、数々の学者がキープについての研究を重ねてきましたが、今日でも解読方法は謎に包まれ、全てを解読するのは非常に困難とされています。

インカ帝国・文明の謎と歴史4:コロンブスにアメリカ大陸が発見される以前はアメリカ大陸最大の帝国だった

インカ文明はコロンブスがアメリカ大陸を発見する以前の先コロンブス期において、アメリカ大陸史上、最も大きな帝国を築いていたと言われます。

クスコ王国9代皇帝であるパチャクテクが1471に亡くなった後、パチャクテクの息子であるトゥパック・インカ・ユパンキが後継者として皇帝の座につくと、トゥパック・インカ・ユパンキは南アメリカほぼ全域にインカ帝国を拡大すべく軍を率いて征服を続けます。

そして、最後まで残っていた敵チムー王国を1490年頃までにはほぼ征服し、ここにアメリカ大陸はもとより、当時の世界を見ても非常に広大な地域を支配した帝国が完成します。

その後、1493年には、トゥパック・インカ・ユパンキの息子であり、「若き強力な君主」の名を持つワイナ・カパックが皇帝となり、彼の下、インカ帝国は「規模」と「権力」ともに全盛時代を迎え、現在のペルー、チリ、エクアドル、ボリビアおよびアルゼンチン北西部、コロンビア南西部までの広大な地域へ強力な権力を及ぼすようになりました。

このことはつまり、パチャクテクから数えて、わずか三世代でインカ帝国は、南アメリカのほぼ全域まで拡大するに至ったということ。

200万平方キロメートル以上の面積に、およそ1200万人の人々が生活し、コロンブスに大陸が発見されるまでのアメリカ大陸史においては最大規模の帝国だったのです。

また、アメリカ大陸だけでなく、16世紀初期の世界においては、世界最大の帝国であったかもしれないとも言われます。

インカ帝国・文明の謎と歴史5:スペインによるインカ帝国征服の裏側にはヨーロッパからの伝染病とインカ帝国の内戦もあった

スペイン人の到来により、当時非常に大きな規模を誇ったインカ帝国は滅亡していくことになりますが、スペイン人が持ち込んだ最新鋭の武器によって、両者には圧倒的な武力の差があっただけでなく、実は伝染病と内戦も、インカ帝国滅亡の大きな原因となったと言われます。

(出典:World History

スペイン人よって、ヨーロッパからは伝染病(麻疹、おたふく風邪、天然痘など)がもたらされることになりましたが、これらの病気に対してインカの人々は抵抗力がなく、特に天然痘の流行は数百万の死者を出しました。

そして、この天然痘の影響は一般市民だけでなく、王朝メンバーにも深刻なダメージを与え、例えば、インカの皇帝ワイナ・カパック、そして長男で後継者であったニナン・クヨチも、天然痘が原因で急死したと考えられています。

ワイナ・カパックには他にも嫡出子、非嫡出子と多くの子がいたものの、新たな後継者を指名する間もなく亡くなったため、異なる母親を持つ二人の息子、ワスカルとアタワルパの間で後継者争いが勃発、これが、インカ帝国内の内戦にまで発展していくこととなります。

内戦は1529年に始まり、1532年にアタワルパが勝利をおさめ終戦となりましたが、インカ帝国は疲弊してしまいます。

一方で、フランシスコ・ピサロ率いるスペイン征服軍は1526年にはすでにインカ領土に到達。

その後、ピサロは一旦スペインへ帰国し、1532年に再びこの地へ戻ってきた時、インカ帝国はすでに天然痘と内戦によって弱体化しており、また、スペインとの武力差もあり、インカ帝国は滅ぼされてしまうのです。

インカ帝国・文明の謎と歴史6:文化遺産のほとんどはスペイン人によって徹底的に壊された

当時最大の規模を誇ったインカ文明は、非常にユニークで興味深い文化を持ち合わせていたと考えられていますが、インカを征服したスペイン人によって、多くの文化的遺産が失われたとされます。

スペイン人の支配者は、インカの人々と文化を抑圧し、文化のほとんどを片端から破壊していったのです。

(出典:How to Peru

街は略奪され、金でできた数々の工芸品や建造物は溶かされて精製されたのち、ゴールドバーとなりました。

また、インカ帝国に暮らす人々は、上でも触れた伝染病によって、そのほとんどがすでに亡くなっていました。

そのため、インカ文化の多くの側面も同時に消滅してしまうことになったのです。

しかしながらアンデス高地に現在も生活する人々の一部は、インカ帝国に属する地域に住んでいた人々の子孫だと考えられており、当時から受け継がれる文化の一部も残されています。

また、インカ帝国の主要言語ケチュア語は、今日も800万人ほどの人々に使われており、1975年にはペルーの公用語の一つとして認定されました。

インカ帝国・文明の謎と歴史7:お金を有さない富

インカ文明は建築および都市建設に優れており、非常に洗練された山岳農業を行える都市を作り上げていました。

インカ帝国は非常に豊かだったようで、新しく征服した地域を開拓・発展させるために、何百人もの専門家を雇うことができたと言います。

また、彼らは山腹に段々畑を作り、そこでジャガイモやトウモロコシ、ピーナッツ、かぼちゃなどを栽培したり、また、不毛な表土を良好な状態に保つために木も栽培しました。

さらに、巨大なピラミッドを作り上げたり、ティポン遺跡では洗練された水道整備が、パチャカマック遺跡では巨大な寺院が、また有名なマチュピチュ遺跡が現在にまで残っています。

このように、インカ文明は優れた生産性を持っていたにも関わらず、何故か貨幣および市場を有することなく運営されていました。

そのため、インカ文明においては基本的に貿易は存在せず、商取引を通じて個々に富を蓄えるのは不可能だったと考えられるのです。

これはつまり、商品の生産や流通などの経済活動は、インカ政府によって一元管理されていたのではないかということ。

「インカ帝国の人々は、食糧、道具、原材料、衣服などの生活必需品を、全て国家が管理する倉庫から供給され、何も購入する必要がなかったのではないか?」と考えられ、店や市場がないため、当然ながら通貨を利用する必要はなかったのです。

一方、国を運営するには、現代で言う税金の徴収が必要なわけですが、貨幣が存在しないインカ文明においては、税をお金で支払う代わりに、インカ国民は国のために働くことを要求されたのでないか。

つまり、

  • インカ国民
    • 国へ労働力を提供(現代でいう税金徴収のような感じ)
  • インカ帝国(政府)
    • 日常生活に必要なものを無償で提供(労働に対する対価の代わり)

といった図式が成り立つのです。

インカ帝国・文明の謎と歴史8:なぜ貨幣や市場がないのに世界最大規模まで発展できたのか?

また、上で触れたことに関係しますが、インカ文明に関する謎の1つとして、市場を作ることなく、どのようにしてここまで豊かで洗練された文化が出来上がっていったのかという点があります。

例えば、他の地域で発展した国家では、基本的に貿易や商取引によって、経済が発展していきます。

一方で、インカ文明が起こった地域は元々、生活を営むのが非常に困難。そのため、インカ文明は飢餓を防ぐことを優先的に計画し、農業を中心とした経済が発達。

その経済も市場経済ではなく「食糧生産と土地管理 」を中央集権的に行うものとなった結果、貨幣がなくても技術的および文化的な機関が中央に集中し発展していったのではないかと、考えられるのではないでしょうか。

つまり、

  1. インカ帝国政府が国民を飢えさせないように食料の生産から供給まで管理する
  2. この地域に暮らす多くの人々を養うことが可能になる
  3. 同時に権力を維持することにも繋がる
  4. 人々の生活が安定し始め、文化的・科学的な文化的側面が発達していく
  5. 国家全体の技術力や知識レベルが高まる
  6. 国家が洗練されていき国力も高まっていく

といったサイクルで、貨幣や市場を持たなくとも、インカ文明は発達していったと考えることが出来るのです。

インカ文明が貨幣や市場を持たなくとも飛躍的に発展したのかの正確な理由はまだまだ議論の余地もあり、謎に包まれていますが、非常に興味深い道すじを辿っていることは確かだと思います。

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インカ帝国・文明の謎と歴史に関する8つの驚くべきことのまとめ

アメリカ大陸で発展した大帝国インカは、他の地域に起こった文明と比べても非常にユニークな側面を持っていました。

一方で、多く歴史的、文化的価値のあった物や知識が失われてしまいましたが、今後の研究によっては、インカ文明の謎として残る数々の事柄が、少しずつ解明されていくかもしれません。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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