レオナルドダヴィンチの謎や都市伝説|最後の晩餐や白貂を抱く貴婦人などにまつわるミステリーとは?

レオナルド・ダ・ヴィンチの謎や都市伝説を8つ紹介していきます。最後の晩餐や白貂を抱く貴婦人など、彼の作品にまつわるミステリーも含めて見ていきましょう。

ルネサンス時代のイタリアに突如現れたレオナルド・ダ・ヴィンチは、想像力にあふれた天才で、万能の天才と称されるなど、彼の才能は分野を超えて発揮されました。

一方で、事実・捏造にかかわらず、ダ・ヴィンチは様々な「謎」に満ちた人物としても知られており、中には都市伝説レベルのものも存在します。

この記事では、彼の残した作品に関するミステリーも含め、レオナルド・ダ・ヴィンチにまつわる謎を8つ取り上げて紹介していきます。

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レオナルドダヴィンチの謎1:モナ・リザのモデルは誰?

世界で最も有名な肖像画「モナ・リザ」は、レオナルド・ダ・ヴィンチを代表する作品の一つですが、そこに描かれている女性がいったい誰なのかは、昔からずっと議論の的でした。

  • ルネサンス期のイタリアで女傑として知られた女性領主「カテリーナ・スフォルツァ
  • フローレンスを支配していたジュリアーノ・デ・メディチの妾(めかけ)
  • マントヴァの侯爵夫人イザベラ・デステ

といった説を始め、他にも「異母妹のビアンカではないか?」とか、「レオナルドの自画像ではないか?」といった主張もあり、謎を呼んできました。

一方で、1479年にフローレンスで生まれたイタリアの貴族夫人「リザ・マリア・デ・ゲラルディーニ」だとする主張があり、その理由について詳しくは「モナリザの謎・秘密1:モナリザの正体」を参照してもらうとして、現在では最も信ぴょう性が高い有力な説だとされています。

レオナルドダヴィンチの謎2:異端者だったのか?

レオナルド・ダ・ヴィンチの謎の一つに、彼は「異端者」、つまり、彼が育ったイタリアで主流となるローマカトリックのキリスト教ではなく、「非キリスト教徒」または「カトリック教会には認められていない宗派を信仰していたのではないか?」というものがあります。

その証拠として挙げられるのが、彼の代表的な絵画の一つ「最後の晩餐」。

この絵画にまつわることとして、

  • キリストの右に座っている使徒(ヨハネ)がとても女性的に描かれている
    •  「キリストはマグダラのマリアと結婚していた」という説を信じていたことを象徴しているのか?
  • 聖体の象徴や葡萄酒の聖杯が描かれていない
    • キリスト教を敬っていないからか?
  • 誰の体とも繋がっていない手が謎にナイフを握っている
    • キリスト教に対する反抗の象徴か?

といった描写が残っており、これらによって、レオナルド・ダ・ヴィンチは異端者だったのではないかという言説が生まれました。

ただし、このダ・ヴィンチをとりまく謎に関しては、以下のような答えが挙げられています。

  1. キリストの右に座っている使徒が非常に女性的に描かれている
    • 答え:女性的な見た目をしたヨハネは当時流行の描き方に沿っただけにすぎない。さらに当時、キリストのお気に入りの弟子であるヨハネは、しばしば優しい体つきで髪の長い青年として描かれた。
  2. 聖体の象徴や葡萄酒の聖杯が描かれていない
    • 答え:最後の晩餐は、ヨハネの福音書で描写されている最後の晩餐の場面をベースに描かれているが、福音書の描写の中には聖体や葡萄酒の聖杯に関する言及は一切ない。
  3. 誰の体とも繋がっていない手が謎にナイフを握っている
    1. 答え:最後の晩餐の下書きを見ると、ナイフを握る手はペトロのものであることが推定できる。これは、ペトロが祭司の召使の耳を切り落とすという、福音書のエピソードに言及されている。

レオナルドダヴィンチの謎3:なぜ鏡文字を使っていたのか?

レオナルドはメモを取る際、独特な鏡文字を用いたことで有名です。

これは、ページの最後から書き始め、右から左へと文字を書き、ページの最初にたどり着く、といった非常にユニークな書き方で、鏡に映すと正常な文字または文章が現れます。

そして、レオナルド・ダ・ヴィンチがなぜ鏡文字を多用したのかについて、謎としてしばしば話題に挙げられるのです。

一説には、

大抵の人に分からない鏡文字を意図して使うことで、自分の研究を秘密にしたかったから

という都市伝説的な解釈が唱えられ、レオナルド・ダ・ヴィンチを異端者と考える人々は、これを「悪魔の筆記」とまで呼びました。

一方で別の説では、

実際のところ、この鏡文字はレオナルドが幼いころに独自に身に着けたおかしな書き方を、誰にも正されることなく大人になっても使い続けたことによるものである

という主張がなされており、父親にとって私生児であったレオナルドが正式な教育を受けられなかったことを考えると、現在では最も理由として有力だとみなされています。

実際、子どもが文字を左右逆に書いてしまうことは良くあります。

また、公文書や地図などを見ると、レオナルド・ダ・ヴィンチは、正しい書き方をすることも出来たのが分かります。

しかし、レオナルドは正しい文字を書くのが苦手だったため、手紙などは常に口述し、他の人に書かせていたと言われ、このことも上記の説を裏付けていると考えられています。

レオナルドダヴィンチの謎4:キリストとユダのモデルは同一人物?

絵画「最後の晩餐」に描かれるキリストやその使徒達に関して、そのモデルとなった人物が誰たったのかについては、残念ながら謎のままで良く分かっていません。

一方で、一見すると全く似ていませんが、レオナルド・ダ・ヴィンチは、イエス・キリストとユダについて同一人物をモデルにしたという都市伝説的な話があります。

(赤い矢印がユダで青い矢印がキリスト)

その説を裏付けるものとして次のような言い伝えがあります。

レオナルドはある日、教会の聖歌隊で歌っていた人の中にキリストのモデルとしてふさわしい人物を見つけ、最後の晩餐を描き始めました。

しかし、完成を目前にしてレオナルドは、ユダのモデルに相応しい人物を見つけられずにいたところ、路上に寝ている酔っ払いを目にし、この酔っ払いをユダのモデルに採用することを決めます。

そして、その人物にモデルとなってもらってユダを描き終わった時、モデルになった酔っ払いは「3年前にキリストのモデルとしてこの絵を見たことがある」とレオナルド・ダ・ヴィンチに言ったのです。

このように、レオナルド・ダ・ヴィンチは知らず知らずのうちに、キリストとユダのモデルに同じ人物を採用していたという話です。

ただし、これはあくまでも言い伝えで確証がある話ではありませんが。

レオナルドダヴィンチの謎5:シロテンの謎

レオナルド・ダ・ヴィンチの作品としてはそこまで有名ではありませんが、1489年から1490年頃に彼が描いたとされる作品として、「白貂を抱く貴婦人(しろてんをだくきふじん)」という作品があります。

この作品は、チェチーリア・ガッレラーニという、当時のミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの愛妾(あいしょう:めかけのこと)が描かれていると言われ、チェチーリアがシロテンを抱いている姿が印象的です。

一方で、チェチーリアが抱いているシロテンの「意味」については、良く分かっておらず謎のまま残っています。

例えば、

  • 上流階級であることを示唆しようとしている
  • 美しい毛皮が汚れるくらいならば死を選ぶという清浄を意味する
  • チェチーリアを囲っていたルドヴィーコを表している

などといった解釈が存在し、正解は不明です。

ちなみに、チェチーリアが抱いているのは白貂(オコジョ)ではなく、正しくは白いフェレットだとされています。

レオナルドダヴィンチの謎6:ダヴィンチコードによって描かれた謎

2003年、アメリカの小説家「ダン・ブラウン」が「ダ・ヴィンチ・コード」という、レオナルド・ダ・ヴィンチにまつわる謎を題材にした推理小説を発表し、2006年には映画化して全世界で放映されたことから、レオナルド・ダ・ヴィンチに注目が集まりました。

そのダ・ヴィンチ・コードは、「レオナルド・ダ・ヴィンチはシオン修道会のメンバーであった」という前提の上に成り立っており、このことがダ・ヴィンチの存在をさらに謎めいたものにしていきました。

ちなみに、このシオン修道会とは、テンプル騎士団の秘密を守ることを目的とした11世紀へ起源を遡る秘密結社で、アイザック・ニュートンやヴィクトル・ユーゴ―、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチのような有名人がメンバーとして活動していたと言われています。

しかし現在、シオン修道会は1956年にフランス人ピール・プランタールという人物によって無から創造された架空のカルトだと考えられています。

というのも、最後の総長を名乗っていたピエール・プランタールが1993年、シオン修道会の根拠が描かれていると言われてきたフランス語の冊子について、それは自らが捏造した偽物であると告白したからです。

その結果、現在においてシオン修道会が主張していた伝統や秘密などは偽りであり、そこにレオナルド・ダ・ヴィンチが所属していたという話も間違いであると考えられています。

レオナルドダヴィンチの謎7:トリノの聖骸布を作った本人?

イエス・キリストが磔(はりつけ)にされて命を落とした後、その遺体を包んだとされる布「聖骸布」は、キリスト教においては聖遺物の一つとされ、トリノの聖ヨハネ大聖堂で大事に保管されています。

一方で、この聖骸布に関しては、

  • 本当にキリストの遺体を包んだものなのか?
  • はたまた、後世において誰が作ったものなのか?

など、多くの謎が取り巻いています。

そして、後世において誰かが作ったという説を主張する人の中には、その製作者としてレオナルド・ダ・ヴィンチの名前を挙げる人も存在し、これが多くの謎を呼んでいるのです。

この主張の根拠としては、

  • 聖骸布に映るイエス・キリストだとされる顔はレオナルドの自画像と一致する
    • 天才レオナルドが、写真の誕生のずっと前に、写真のような技術の実験を行った結果なのではないか?
  • レオナルド・ダ・ヴィンチが書き綴ったノートの一つ「アトランティコ手稿」の一説は、彼が聖骸布の製作を「告白」している(という解釈)

といったものがあるのです。

ただし、より客観的な調査や研究、例えば放射性炭素年代測定技術を用いた科学的な調査では、聖骸布が作られた年代は1260年から1390年の間という答えが出ており、レオナルド・ダ・ヴィンチが生きた1452年から1519年の 間よりも前であった可能性が示唆されています。

そのため、レオナルド・ダ・ヴィンチが聖骸布を作ったとは考えにくいですが、未だにこの謎に対しての明確で確実な答えは見つかっていません。

レオナルドダヴィンチの謎8:消えた遺体と墓の謎

レオナルド・ダ・ヴィンチの遺体についても謎が取り巻いています。

というのも、レオナルド・ダ・ヴィンチの墓は現存せず、また骨がどこに埋葬されているのかも不明だからです。

レオナルドが亡くなったとき、フランスのアンボワーズ城敷地内にあるサン・フロランタン教会に埋葬されました。

しかし1802年、劣化とフランス革命時の破壊行為によって教会は破壊され、墓石は城を再建するために再利用されました。

そして、近くの子ども達が元墓地で骨を掘り返して遊ぶようになり、庭師はその骨を集めて、どこかに再び埋葬したのです。

1863年、詩人のアルセーヌ・ウーセイが、腕の曲がった額の広い完全体の骸骨と、その近くから「…EO DUS VINC…」と書かれた半壊の石板を石板を発見。

この石板にある「…EO DUS VINC..」とは、ラテン語の「LEONARDUS VINCIUS(レオナルドゥス・ヴィンチウス)」の名残ではないか?

と考えたウーセイは、この遺体をアンボワーズ城に持ち込んで再び埋葬したのです。

そのため、埋葬された場所にあるお墓は今日、レオナルド・ダ・ヴィンチの墓と伝わっていますが、そこに埋葬されている骨が本当に彼のものなのかどうかは確実でなかったりするのです。

このレオナルド・ダ・ヴィンチの墓の謎については、今後一生解き明かされることはない謎の一つでしょう。

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レオナルドダヴィンチの謎や都市伝説|最後の晩餐や白貂を抱く貴婦人などにまつわるミステリーとは?のまとめ

ルネサンス期のイタリアに突如として現れた万能の天才「レオナルド・ダ・ヴィンチ」に関する謎をみてきました。

人類史上で最高の頭脳を持っていた人物とさえ考えられるダ・ヴィンチは、現代においてでさえ未だに話題に上がる偉人で、だからこそ彼に関する謎は多くの人々の興味をそそります。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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