オーストラリアとイギリスの関係について見ていきましょう。植民地と宗主国であった歴史を始め、5つのポイントを軸にして確認していきます。
オーストラリアとイギリスは、アングロ・オーストラリアンや英豪関係とも呼ばれる特別な関係を築いています。
これは、18世紀にイギリスがオーストラリア大陸を発見して、植民地として領有権を主張した後、多くのイギリス人移民を送り込んだことから始まりました。
両国は歴史や文化においてはもちろんのこと、制度面や優遇的な移民政策、さらには外交や安全保障を含めた軍事面などで、非常に強い関係を確立し、維持してきたのです。
オーストラリアとイギリスの関係について、歴史、文化、移民政策、軍事、外交の5つを軸にして見ていきましょう。
オーストラリアとイギリスの関係を知る上で大切な歴史
オーストラリアとイギリスの関係を理解するには、両国が共有する歴史を確認していく必要があります。
オーストラリアへやってきたイギリス人
1766年、イギリス海軍に属していた士官で海洋探検家のジェームズ・クック(通称:キャプテン・ジェームズ・クック)は、太平洋へ初の航海を開始しました。
そして、1770年の4月にはオーストラリア東海岸沿岸に到達し、そこを航海しながら地図に記録して、同地をニューサウスウェールズと命名。
シドニーのボタニー湾へ上陸すると、イギリスの領有権を宣言したのです。
アメリカの独立によりオーストラリアへのイギリス人の入植が加速する
1776年にイギリスからの独立を宣言し、1783年にはイギリスとの独立戦争に勝利したアメリカ合衆国は、国際的にもその独立が承認され、イギリスはアメリカに領有していた植民地を失います。
この結果、当時のイギリス政府はオーストラリアのニューサウスウェールズに、新たな流刑地を開拓するため、キャプテン・アーサー・フィリップの下で1786年10月、ファースト・フリートと呼ばれるイギリス海軍の船団を派遣することを決定。
クックによりオーストラリアが発見されてから、15年以上も後のことでした。
イギリス帝国支配によるオーストラリア連邦の結成
アーサー・フィリップに率いられたイギリス人の派遣団がオーストラリアへ到着すると、さっそく宿泊地が設営され、1788年1月26日にはシドニー・コーブ(シドニー湾の中又は現在のシドニー中心街の一部サーキュラー・キー付近)に旗が掲げられました。
そして1788年2月7日、ニューサウスウェールズイギリス直轄植民地が正式に発表されます。
これに続き、1803年には現在のタスマニアであるヴァン・ディーメンズ・ランド、1828年には現在西オーストラリアとして知られているスワン川沿岸一帯、1836年には南オーストラリア、1851年にはビクトリア、1859年にはクイーンズランドに、イギリスの直轄植民地が開拓されました。
これら6つの植民地は1901年に連合し、イギリス自治領としてオーストラリア連邦を結成。イギリス帝国支配の下で事実上独立したのです。
オーストラリアとイギリスが連合国側として参加した2つの世界大戦
それから13年が経過して第一次世界大戦が勃発し、その大戦後から少しして勃発した第二次世界大戦へ世界が巻き込まれていくと、オーストラリアとイギリスは同じ陣営側として共闘していきます。
まず、1914年から1918年まで続いた第一次世界大戦において、オーストラリアとイギリスは共に、アメリカやフランスそして日本と同盟した連合国側として参戦。
主に、オスマン帝国とのガリポリの戦いおよび西部戦線で力を発揮しました。
また、1939年から1945年まで続いた第二次世界大戦においても、再びオーストラリアとイギリスはアメリカを中心とした連合国側として共に戦い、太平洋地域における戦いでオーストラリアは、イギリスの植民地を日本軍の侵略から守りました。
世界大戦後からオーストラリアの完全独立まで
一方で、1901年にはオーストラリア連邦が結成されて事実上の独立が成立していたものの、第二次世界大戦後の1949年に至るまで、オーストラリアの人々は独自の市民権を持っていませんでした。
つまり、国籍上、オーストラリア人は存在せず、あくまでもイギリス国籍を持ち、南半球のオーストラリア連邦と呼ばれる自治領に住んでいる人々であるとされていたのです。
その後、40年弱の時間が経過した1986年、ここにいたってようやくオーストラリアはイギリスから完全に独立した国家となります。
オーストラリアの議会がイギリスの議会から完全に独立し、英国側の判断がオーストラリアの司法や議会に適応されることを廃止した「オーストラリア法」が、1985年12月9日、イギリス議会によって可決。
1986年3月3日には同法が施行され、オーストラリアはイギリスから完全に独立した憲法制度を持つようになり、合わせて完全なる独立国家となったのです。
現在でも強い関係を維持しているオーストラリアとイギリス
このような歴史の流れを汲んでいる両国の関係は、現在でも非常に強固だと言えるでしょう。
二国間の関係(主に経済関係)は、1973年、イギリスがヨーロッパ経済共同体(EEC)に加盟して近隣に新たなパートナーシップを持ったことにより、多少なりとも弱まることとなりました。
しかしながら、オーストラリアと文化や人種的な共通要素を多く有するイギリスは、オーストラリアにとって、現在でもトップ3に入る大きな投資国であり続けています。
また、一方のオーストラリアも、決して大きくない経済規模にも関わらず、イギリスに対する直接投資国家としてはトップ10に入っています。
オーストラリアとイギリスの文化交流
オーストラリアがイギリスの植民地であった歴史から、両国は文化や伝統において深い繋がりを持っていることは明白で、同時に両国の間には長い文化交流の歴史があります。
例えば、両国で公用語とされている言語は「英語」であり、オーストラリア英語とイギリス英語は異なる部分が多いものの、共通する特徴も多く抱えています。
一例として「r」の発音について。
アメリカ英語では単語の最後に「r」の音が来ると、巻き舌気味にして強調されますが、オーストラリア英語とイギリス英語では基本的に、そこまで強調されません。
また、オーストラリア英語はスペリングに関してもイギリス英語を採用しているため、例えば、アメリカ英語で「organization」となるところ、オーストラリア英語ではイギリス英語と同じ「organisation」となります。
さらに、食文化に関してもイギリスから大きな影響を受けており、イギリスを代表する食べ物である「フィッシュアンドチップス」や「ミートパイ」などは広くオーストラリアで食べられています。
大衆文化でも両国は緊密な関係にある
一方で、大衆文化においても両国の関係は強いと言えるでしょう。
イギリスのテレビドラマは日本も含めて世界中で人気を集めることがありますが、この現象はもちろんオーストラリアでも見られます。
また逆に、オーストラリアのテレビドラマがイギリスで人気となることもあり、特に1980年代後半から1990年代にかけては大きな人気を集めました。
例えば、オーストラリアのテレビドラマ「ネイバーズ」は1990年、イギリスにおいて1日あたり1900万人の視聴者を獲得したとされ、またこのドラマに出演したオーストラリア人の俳優や女優はその後、イギリスの芸能界で活躍の場を広げました。
他にも、クライブ・ジェームズ、アダム・ヒルズ、ティム・ミンチンなど、オーストラリアで人気となったコメディアンがイギリスで成功を収めることも少なくありません。
オーストラリアとイギリスの関係を表す両国間の移民たち
オーストラリア人口の大半はイギリスになんらかのルーツを持つ
歴史の中でイギリスからオーストラリアへ渡った移民の波は、オーストラリアの発展に大きく貢献したわけですが、自らのルーツの一部がイギリスに遡る人々を含めると、その割合は現在のオーストラリアで生活する人々の大半に上ると言われます。
また、イギリスからオーストラリアへの優先的な移住政策は、1972年を最後に大規模に行われることはなくなったものの、現在のオーストラリアにおいて、約110万人の人々はイギリス出身であることが明らかになっています。
これは、現在のオーストラリア総人口2500万に対して4.4%、およそ23人に1人がイギリス出身だと言うことです。
例えば、オーストラリアの首相であったジュリア・ギラードは、イギリスのウェールズにあるヴェール・オブ・グラモーガンのバリーという町で生まれました。
さらに、元自由党党首で首相を務めたトニー・アボットも、オーストラリア人の両親を持つものの、出生地はイギリスのロンドンになります。
オーストラリア → イギリスも特筆すべき優遇政策がある
一方で、オーストラリアからイギリスへの移民に関しても特筆すべきポイントがあると言えるでしょう。
中でもイギリスの先祖ビザ(Ancestry Visa)という優遇ビザによって、祖父母のうち一人がイギリス生まれで、その祖父母がイギリス国籍を持っている/持っていたオーストラリア人は、イギリス人を祖先に持つと認められ、イギリスで5年間自由に働いて生活することが出来るようになるのです。
実際これによって、多くのオーストラリア人がイギリスを気軽に訪問して滞在しています。
また、近年においては、イギリスと、元々イギリスを宗主国としていたオーストラリアを始め、他にもカナダとニュージーランド間を各国の国民たちが自由に行き来出来る政策の成立が検討されており、これが施行されると、オーストラリアとイギリスの関係はより強いものとなるでしょう。
オーストラリアとイギリスの軍事面での協力関係
イギリスとオーストラリアは、世界大戦での共闘に見られるように、軍事面においても密接に連携を重ねてきた歴史を持っており、このことはまた制度面に関しても言及できます。
例えば、オーストラリアは1975年に至るまでイギリスの勲章制度の下にありました。
そのため、オーストラリアは参戦してイギリスは参戦しなかったベトナム戦争において、4人のオーストラリア人が戦争での功績を認められ、イギリスの勲章制度の下でビクトリア十字勲章が与えられています。
オーストラリアがイギリスから独立した勲章制度を制定したのは、1991年になってからでした。
さらに、近年においては両国ともに、軍事と諜報に関する情報を加盟国間で共有する「豪加新英米海軍C4機関(AUSCANNZUKUS)」に参加しています。
また、ソマリア沖の海賊行為に対する第151合同任務部隊や、2014年に失踪したマレーシア航空370便の捜索など、特殊活動においても両国は連携協力を行っています。
オーストラリアとイギリスの外交関係
主にイギリスとその植民地であった独立主権国家からなる緩やかな国家連合体「イギリス連邦」に属し、同時にイギリスの王を(象徴として)自国の国王として戴く「英連邦王国」に属する両国は、首相、内閣、高官レベルにおける積極的な対話によって支えられています。
例えば、2006年には当時のイギリス首相トニー・ブレアが、イギリス政府のトップとして初となるオーストラリア議会での演説を行いました。
そしてもちろん、両国はそれぞれ自国の大使館を相手国に対して設置しており、オーストラリアはイギリスの首都ロンドンに大使館を、イギリスはオーストラリアの首都キャンベラに大使館を置いています。
また、2016年7月、イギリスの欧州連合離脱(ブレグジット)が国民投票により決定された直後、当時オーストリアの首相であったマルコム・ターンブルは、電話にてイギリスのテリーザ・メイ首相に、「EU離脱後の二国間の自由貿易協定を提案する考え」を表明したとされています。
オーストラリアは、イギリス国民がEU離脱を支持した後、このような態度と関心を直ちに公表した数少ない国の一つでした。
合わせて読みたい世界雑学記事
オーストラリアとイギリスの関係|植民地と宗主国の歴史から見る文化や移民政策などのまとめ
オーストラリアとイギリスの関係を、歴史や文化など5つのポイントから見てきました。
ちなみに、オーストラリア人はイギリス人を「ポム(Pom)」と言う愛称で呼ぶことがあり、これは中傷や偏見といった意図は含まれず、親近感を込めて使われています。
また一方で、イギリス人はオーストラリア人を「オージー(Aussie)」と呼びますが、これも同様に親近感を込めた愛称で、現在では世界で広く使われています。