ウラジーミル・プーチンの身長と経歴について見ていきます。長期に大統領職を務め、現代ロシアの帝王とも言われるプーチンについて詳しくなりましょう。
世界最大の国土を誇る大国ロシアには、ピョートル大帝やウラジーミル・レーニンなど、歴史を動かす大きな影響力を持った人物が現れてきましたが、長期政権を築いたウラジーミル・プーチンも、後世の歴史では同じように扱われるかもしれません。
プーチンは第2代と第4代のロシア連邦大統領としてロシアを引っ張り、国際社会で強力な存在感を示しています。
一方で、その存在感に比べて低身長なことでも知られます。
この記事では、そんなプーチンの身長と経歴についてを取り上げていこうと思います。
ウラジーミル・プーチンの身長と経歴まとめ
ウラジーミル・プーチン(1952年10月7日〜)、全名ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンは、ロシア連邦の政治家で、ロシア国内においては首相や大統領など、要職を何度も経験してきた人物。
過去にはKGBの将校やサンクトペテルブルクの副市長を務めたこともありました。
プーチンの身長は170cm前後
そんなプーチンは、周りのロシア人の政治家や他国の首脳達と並んだ際に身長が低く映ることがしばしばありますが、公式には発表されていないものの、彼の身長は、
- 170cm
と見られています。
ただし、基本的には170cmというのが良く言われるプーチンの身長ですが、他国の首脳などとの比較から、168cm〜171cmまでの範囲で異なる推測がなされているのも事実です。
プーチンの経歴まとめ
現在(2019年現在)はロシア連邦の政治家であり、ロシアの大統領として知られるプーチンは、現行の第4代大統領だけでなく、過去には2000〜2008年までロシア連邦第2代大統領に就任していたこともありました。
政治に関わる以前はソ連時代の諜報機関「ソ連国家安保委員会(KGB)」の第1総局(対外諜報部)に勤めていたことでも知られ、当時は仕事の関係で、1985年から1990年まで東ドイツに滞在しています。
その後、中佐の地位に上りつめていたプーチンはKGBの仕事を退職。
1990から1996年まではサンクトペテルブルク市の行政機関で働き、1992年からはサンクトペテルブルク市副市長とサンクトペテルブルク市第一副市長を歴任し、主に、海外投資や国際関係のアドバイス業務に就いていました。
1996年にはモスクワに移動し、1998年にはボリス・エリツィンが政権を握るロシア大統領府のメンバーになります。
1998から1999年まではロシア連邦保安局の長官に就任。1999年にはまた、ロシア連邦保安庁(FSB)の長官とロシア連邦安全保障会議の書記に任命されました。
そして、エリツィンが引退するのと同時にその地位を引き継ぎ、ロシアの大統領に就任します。
そこでは2期連続で大統領の任期を務め、2000~2008年までの長期にわたり政権を担当。
当時、プーチンが大統領の職に就いていた時はロシア経済も連続して成長を続けており、その職務において輝かしい経歴を残していました。
また、2005年にはロシア行政府のあるクレムリンの長として初めてイスラエルを訪れるなど、歴史的な海外訪問も行っています。
その後は、2008~2012年までドミトリー・メドベージェフが大統領に就任している間、ロシアの首相を務め、2012年には再び大統領に就任して現在に至っています。
ウラジーミル・プーチンの経歴をもう少し詳しくダイジェストで確認
以下では主に政治家としてのキャリアに焦点を当てながら、プーチンの経歴をもう少し詳しく追っていきます。
生い立ちからKGBでのキャリアまで
(出典:wikipedia)
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンは、1952年10月7日、レニングラード(現サンクトペテルブルク)に生まれました。
家族と共に暮らす共同アパートで育ったプーチンは、地元のグラマースクールとハイスクールに通い、在学中にはスポーツに対する関心が高まっていった結果、この頃にはサンボと柔道を初めています。
1975年、法学士の学位を授与されレニングラード大学を卒業するとプーチンは、KGBで諜報員としてのキャリアを開始。
東ドイツを主な拠点として、1990年まで諜報活動に従事して退役時の階級は中佐でした。
政界進出
ロシアに帰国するとプーチンは、レニングラード大学で学長補佐官の職に就きました。
そして、1991年に共産主義体制が崩壊すると、リベラル派の政治家アナトリー・サプチャークのアドバイザーに就任。
同年の6月にサプチャークがレニングラード市長に選出されると、プーチンはサプチャークの対外関係対応のトップに就任し、1994年には、サプチャークによってサンクトペテルブルク市第一副市長に任命されました。
しかし、1996年、サプチャークがサンクトペテルブルク市長選で敗北したため、プーチンは職を辞してモスクワへと移ります。
ロシア中央政府にて要職を経験していく
(出典:wikipedia)
1998年、プーチンはモスクワにて、ボリス・エリツィン政権下のロシア大統領府第一副長官に任命されました。
この職務でプーチンは、ロシア中央政府と地方政府との関係を担当します。
そして、ほどなくしてプーチンは、KGBの後身機関であるロシア連邦保安庁(FSB)の長官に任命されると同時に、エリツィン政権下の安全保障会議議長に就任。
1999年8月、エリツィン大統領はセルゲイ・ステパーシン首相とその内閣を解任し、プーチンを後継者に抜擢しました。
ロシア連邦の大統領1期目を務める
1999年12月、ボリス・エリツィンがロシア大統領職を退くと、正式な大統領選挙が実施されるまでの間、プーチンが大統領代行に指名されます。
(出典:wikipedia)
そして2000年3月、プーチンは大統領選で得票率53%を獲得し、1期目の大統領職に当選。
政治と経済、両面の腐敗を取り除き、改革に取り組むことを公約に掲げ、プーチンは政府の再編および知名度の高いロシア国民のビジネス取引に対する犯罪捜査に着手しました。
また、チェチェン共和国におけるロシア軍の軍事活動も継続し、2001年9月にはアメリカでの同時多発テロ事件を受けて、プーチン大統領は「テロとの戦いにおいてロシアはアメリカを支援する」と発表。
しかし、アメリカの「テロとの戦い」の焦点が、イラクの指導者サダム・フセインの失脚に移行するとプーチンは、ドイツのゲアハルト・シュレーダー首相およびフランスのジャック・シラク大統領と共に、このアメリカの計画に反対の姿勢を表明しました。
大統領に再選されて2期目を開始
2004年、プーチンは大統領選挙で再選されて2期目へ突入。
翌年の4月にはイスラエルへの歴史的訪問を果たし、アリエル・シャロン首相と会談を行いました。これは、ロシア政府首脳による初のイスラエル訪問として知られます。
そして、2008年になると大統領の座を退き、ロシア憲法の規定に従いプーチンは、2008年の大統領選には出馬しないことを決定します(この後すぐにロシアの大統領任期が4年間から6年間へ延長されている)。
しかし、プーチンの後継者であり側近のドミトリー・メドヴェージェフが2008年3月、大統領選に勝利してロシア大統領に就任すると、ただちにプーチンをロシアの首相に指名。
それからの4年間は、首相という立場にありながら、実質的にはプーチンが第一人者としての立場と影響力を維持し、ロシアの政治を切り盛りしていくことになります。
3期目の大統領職を開始
大統領職を一旦退いたことで、再び大統領就任が可能になったプーチンは、2012年5月7日、選挙違反に関する抗議や申し立てが相次いだものの、大統領に再選されて大統領職3期目を開始。
就任後ただちにメドヴェージェフを首相に任命し、再び政治の舵取りを始めたプーチン大統領は、ロシアの国内問題および外交政策への変革を引き続き推し進めていきます(その政策自体は論議を呼んだ)。
大きな議論を呼んだいくつかの決定
ロシア人の子どもの国際養子縁組を禁止する法案
2012年12月、プーチン大統領は米国人によるロシア人の子どもの国際養子縁組を禁止する法案に署名。
プーチンによれば、2013年1月1日に発効となった同法律は、ロシア人がロシア人孤児をそれまでより養子にしやすくするとしています。
しかし、この法律の成立により、プーチン大統領が署名をする段階で、アメリカ人による養子縁組に向けての最終局面にあったとされる50名近いロシア人の子供達が、法的に曖昧な状況に放置されたままになったと報じられ、国際的な論議を生みました。
エドワード・スノーデンの保護
さらに2014年、アメリカ国家安全保障局(NSA)の国家機密情報を漏洩したとして、アメリカから引渡しを要請されていたエドワード・スノーデンの保護をプーチンが決定したことで、アメリカとの緊張関係が悪化。
この対応を受け、アメリカは8月に予定されていたバラク・オバマ大統領とプーチンの会談をキャンセルしました。
反同性愛法に関する決定
この頃また、プーチン大統領は新たな反同性愛法制定をめぐっても、多くの人々から批判を受けました。
プーチン大統領はこの法律により、ロシアではゲイのカップルは認められないとし、未成年者に対して「伝統的でない」性的関係について宣伝(プロパガンダ)することを禁止しました。
この反同性愛法は、世界中で広く批判されるに至ります。
4期目の大統領就任の目標を表明
2017年12月、プーチン大統領は年末恒例の記者会見にて、2018年初めの大統領選挙に無所属候補として出馬し、さらに6年間の大統領職続行を目指すことを表明しました。
これは、長きにわたる統一ロシアとの連携に終止符を打つことを意味するものでした。
さらに在任中、何故、重大な政治的反対勢力に直面することがなかったのかと記者から問われたプーチン大統領は、「競合する者を私自身が訓練しなければならないのか?」と切り返し、政治的な競争は歓迎すると付け加えました。
ちなみに、2017年12月末には、サンクトペテルブルグのスーパーマーケットで爆発事件が発生し、十数名が負傷。
これに応じてプーチン大統領は、こうしたテロ事件に「断固として立ち向かう」ことを捜査当局に指示。
この一件により、プーチン大統領のイメージとして定着した「タフガイ」としての論調が、ロシア大統領選挙に先立って再び高まっていくことになります。
また、プーチンと題した2時間におよぶドキュメンタリーが、いくつかのソーシャルメディアやロシア政府を支持するYouTubeのアカウントに投稿され、そこでは強靭なしかし人間味あふれる大統領として、プーチン大統領が描かれていました。
大統領職4期目を開始
2018年3月18日、ロシアによる一方的なクリミア併合から丸4年が経過したこの日、プーチンは大統領選で得票率76%以上の圧勝をして大統領職の4期目に突入しました。
この人気者のプーチン大統領に対し、分裂した野党候補に勝ち目はほとんどなく、プーチン大統領の次に多くの票を獲得した候補者の得票率は13%に留まったのです。
一方で、世界の大国としてのロシア再建をめざすプーチン大統領の戦略には、ほとんど変化がないものとみられています。
そして、2018年7月16日にプーチン大統領は、フィンランドのヘルシンキにて、アメリカのドナルド・トランプ大統領と初めての公式な二国間会談を行い、翌年4月には、北朝鮮の最高指導者である金正恩と初めて会談を行いました。
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ウラジーミル・プーチンの身長と経歴|大統領を長期で務める現代ロシアの帝王のまとめ
現代ロシアの帝王と呼ばれるウラジーミル・プーチンについて、身長から経歴までを見てきました。
国際社会においてプーチンの存在は無視できないほど巨大であり、プーチンについて知っておくことは、今後の国際情勢を占う上でも重要です。