ウィンストンチャーチルの演説「鉄のカーテン」を始めとした10選!

ウィンストン・チャーチルの演説を10個紹介していきます。鉄のカーテンのフレーズで知られる演説から、ほとんど知られていないけど重要なものまで見ていきましょう。

第二次世界大戦中、そして第二次世界大戦後の冷戦初期の大変な時期に、イギリスの首相を務めたウィンストン・チャーチルは、優れた雄弁術によって感動的な演説を多く残してきました。

戦時下でさえチャーチルの演説は力強く、第二次世界大戦中の暗黒の日々にあっても、イギリスの国章に描かれるライオンが雄叫びをあげるがごとく、チャーチルは力強くイギリスを引っ張っていったのです。

チャーチルの演説の演説に対しては、今もなお敬意が表され、また、多くの人々の心に響くと同時に、歴史的にも重要だとして未だに多くの人々によって研究されています。

この記事では、「鉄のカーテン」のフレーズで知られる演説から、ほとんどあまり知られていないものの、実は非常に重要な意味を持ったウィストン・チャーチルの演説までを、10個紹介していこうと思います。

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ウィンストン・チャーチルの演説1「その後の演説を変えた演説」

ウィストン・チャーチルの演説は力に満ち溢れ、チャーチルが演説をすれば世界中が大きな影響を受けるなど、後世にも優れた演説家として知られるチャーチルですが、決して生まれつき演説の天才だったわけではありません

チャーチル自身も失敗から学びながら偉大な演説家となったのです。

(出典:wikipedia

ほとんど知られていないものの、チャーチルが偉大な演説家となったキッカケとして実はかなり重要な演説が、1904年4月22日、庶民院で行われた「労働組合と貿易摩擦に関する法案についての演説」でした。

その中でチャーチルは、労働組合に関する1時間近い演説を続けていましたが突然、

労働者階級を満足させるのは政府の義務です。正当化する理由はないと・・・。あ~。。。(長い沈黙)

と、考えの脈略を失ってしまったのです。

チャーチルはしばらく時間稼ぎをしていましたが、演説を最後まで終わらせることが出来ず、結局、議員達に清聴を感謝して椅子に腰かけ、両手で頭を抱えました。

これが契機となり、チャーチルの演説スタイルは変わります。

それまでチャーチルは、演説を完全に暗記することを習慣としていました。

しかしこの失敗以降、スピーチ原稿を作成することを決め、何度も下書きし、修正・校閲を繰り返すようになったのです。

その結果、力強くて畏敬の念を起こさせ、聴衆を奮い立たせるような演説手法が作り上げられ、偉大な演説家が誕生することになりました。

ウィンストン・チャーチルの演説2「イギリスの自由」

ウィンストン・チャーチルがまだイギリスにおける一介の庶民院議員で会った1910年1月10日、当時のイギリス議会は、世襲貴族による貴族院の影響力が強く、決して庶民のための自由な国政が運営されているとは言い難い状況でした。

その状況に対して行われたのが、「The Liberties of Britain(イギリスの自由)」と呼ばれるチャーチルの演説です。

(貴族院は)我々の自由や政治的な権利を、貴族院が我々にそれを与え続けることを選択した場合に限り、守られ、享受されるものであると考えている。

しかし、ひとたび我々が現実を知れば、世襲貴族の利益や特権を知れば・・・。(演壇を蹴り)そんなことはもう終わりにしよう!

この演説は、1900年代初頭の最もリベラルであった時期のチャーチルを代表するスピーチで、さらに以下のフレーズをバーミンガムの聴衆に対して述べています。

財政だけでなく立法に関する貴族院(上院)の世襲貴族議員による拒否権は、撤廃されなければならない

そして一年後、それが現実になりました。

貴族院は、財政法案に関する否決・修正の権限を失っただけでなく、それ以外の法案に関しても庶民院において3回可決された場合は否決しても無意味となり、庶民院がイギリス議会においては優勢となったのです。

ウィンストン・チャーチルの演説3「血と労苦と涙と汗」

Winston Churchill "Blood, Toil, Tears and Sweat"

Blood, Toil, Tears and Sweat(血と労苦と涙と汗)」のフレーズで知られる演説は、イギリスの首相に就任したウィンストン・チャーチルが、1940年5月13日の庶民院で初めて行った演説です。

我々の目的は何か、と問われれば、私は一言で答えよう。

勝利だ、と。

いかなる代償を払おうとも勝利すること、あらゆる恐怖が待ち受けようともそれに打ち勝ち勝利すること、その道がいかに長く辛いものであろうとも勝利すること。

勝利なくして生き残る道はないのである。

この演説を通してチャーチルは議会に対し、政策はさておき、ドイツに対する戦争に臨むためにも、全政党を包含して挙国一致内閣(大規模な戦争や経済恐慌といった国家の危機や政党内閣の危機に際して、対立する政党をも包含して作られた内閣)を作ることを表明しました。

そして、チャーチルは新たに任命した官僚たちに伝えた言葉を、全政党に伝えると述べ、次の有名なフレーズを残したのです。

血と労苦と涙と汗のほかに私が差し出せるものはない

ウィンストン・チャーチルの演説4「我々は岸辺で戦う」

Winston S Churchill: We Shall Fight on the Beaches

第二次世界大戦最中の1940年5月下旬から6月4日にまでかけて起こったダンケルケの戦いの中で、ドイツ軍に追い詰められた英仏軍は、あらゆる手段を使って40万人近くの将校を脱出させるダイナモ作戦を決行して成功させました。

しかし、イギリス全国民に高揚感と安堵感が広がる一方、イギリスが直面する危機が今や全世界に知れ渡るところとなったのです。

その時ウィストン・チャーチルは、

我々は最後までやりぬくつもりである。我々はフランスで戦い、我々は岸辺で戦う。

我々はますます自信を深め、ますます強さを増して空中で戦う・・・(中略)・・・我々はこの島国を守る。いかなる犠牲を払おうとも。

我々は水際で戦う。我々は着陸地面で戦う。

我々は野原や街頭で戦う。我々は丘で戦う。我々は決して降伏しない…

と1940年6月4日に庶民院で述べ、「We Shall Fight on the Beaches(我々は岸辺で戦う)」のフレーズで後世に知られることになった演説をし、世界に向けて「イギリスは屈しない」と力説したのです。

ウィンストン・チャーチルの演説5「最も輝ける時」

ウィストン・チャーチルの演説の中でも、最も力のこもった心に響くスピーチの一つとして知られるのが、1940年7月18日に庶民院で行われた「Finest Hour(最も輝ける時)」と呼ばれる演説。

Winston Churchill "finest hour" (best version)

その少し前の1940年6月21日、ナチスドイツに対してフランスが降伏。

チャーチルはその悲惨な状況を説明しなければなりませんでしたが、同時に、ポジティブな姿勢を崩さずしてナチスに立ち向かう意思を示さなければなりませんでした。

そこで、チャーチルはこの演説を行ったのです。

(フランスの)ウェイガン将軍が「フランスの戦い」と呼んだものは終わった。今まさに、「イギリスの戦い」が始まろうとしている・・・。

ヒトラーは知っている。このブリテン島に住む我々を倒さない限り、この戦争に負けることを。

我々がヒトラーに立ち向かうことができれば、ヨーロッパ全土は自由になり、世界中の命は、広々とした日の当たる高台へと移るであろう。

しかし、もし我々が敗北すれば、そのときはアメリカを含む全世界が、我々がこれまでに知り、大切にしてきたものすべてが、科学の悪用が放つ光によってさらに邪悪な、そしておそらくさらに長期化する新たな暗黒の時代の奈落の底に落ちることになるであろう。

ゆえに我々は自らを奮い立たせ、我々の務めを果たそう。

そしてもし、大英帝国がこの後1000年続いたならば、のちの世の人々から「それが彼らの最も輝ける時だった」と言われるように振舞おう。

ウィンストン・チャーチルの演説6「少数の人々」

Never was so much owed by so many to so few – Winston Churchill Speeches

1940年8月20日、庶民院でウィストン・チャーチルは、

ここ数週間にわたり、このブリテン島の上空で繰り広げられている一大空中戦は、極めて激化してきている。

と始めて、「The Few(少数の人々)」として知られるようになる演説を行いました。

1940年8月15日、英国空中戦(バトル・オブ・ブリテン, 第二次世界大戦中に行われたドイツとイギリスの航空戦)はイギリスを劣勢に追い込み、南方の戦闘機軍団が総動員される危機的状況となっていました。

そこでチャーチルは、イギリス上空で戦った戦闘機のパイロットに対し、感動的な賛辞を送り、以下のようなフレーズを演説の中で残しています。

人類の紛争の歴史の中で、かくも少ない人々が、かくも多数の人々を守り、かくも大きな恩恵を与えたことはいまだかつて無かった。

ちなみに、この演説は「Never was so much owed by so many to so few(かくも少ない人々が、かくも多数の人々を守り、かくも大きな恩恵を与えたことはいまだかつて無かった)」と言う名前でも知られています。

ウィンストン・チャーチルの演説7「アメリカ合衆国議会合同会議での演説」

1941年12月26日、第二次世界大戦で苦戦を強いられていたイギリスは、アメリカにヨーロッパの戦場へもっと戦力を割いて欲しいと考えていました。

Winston Churchill – Address To Joint Session Of Congress

そこで、ウィンストン・チャーチルは1941年12月26日、アメリカ合衆国議会合同会議(アメリカの下院と上院が合同で行う集会)にて以下のフレーズを含む演説を行いました。

今後、イギリス人とアメリカ人は、互いの安全とすべての人々の利益のために、威厳をもって、公平に、そして平和に、共に並んで歩んでいく。

この演説は、イギリスに対するアメリカの支援を強化させる役目を果たしたことから、イギリスの歴史上で大きな意味をもつスピーチとなりました。

またチャーチルは、アメリカの関心をさらに引き出すために、両国の文化や言語の共通性、そしてチャーチル自身がアメリカにゆかりのある家系出身であることを強調したのです。

ウィンストン・チャーチルの演説8「鉄のカーテン」

第二次世界大戦が終了した後、世界は資本主義・自由主義の西側諸国と、共産主義・社会主義の東側諸国に分かれていきました。

チャーチル 鉄のカーテン 演説 Churchill Iron Curtain Speech

その状況を見かねたチャーチルは、西側の資本主義陣営に対して敵対しているソ連を中心とした共産主義陣営を批判する演説を、1946年3月5日、ミズーリ州フルトンのウェストミンスター・カレッジで行いました。

バルト海に面したシュテッティンから、アドリア海に面したトリエステまで、ヨーロッパ大陸に鉄のカーテンが降ろされた。

この演説の中で発せられた「Iron Curtin(鉄のカーテン)」という比喩は、当時の分断を表す象徴または概念として有名となり、また、演説自体もチャーチルを代表する物となりました。

一方で、チャーチルの「鉄のカーテン」の台詞が極めて強力であったため、アメリカのトルーマン大統領は国際的な悪評を受ける中、自らの発言を控えなければならない状況になっていたと言われます。

とは言え、これはイギリスとアメリカの「特別な関係」を説明する演説ともなり、イギリスとアメリカは共に共産主義に対して強く反対を訴え、その結果として、事実上、20世紀の残りの時代の流れが決まっていくことになったのです。

ウィンストン・チャーチルの演説9「ヨーロッパ合衆国」

Churchill – United States of Europe

1946年9月19日、スイスのチューリッヒ大学でウィストン・チャーチルは、

ヨーロッパの国家で、初めはこの連盟に参加しない国、もしくは参加できない国があったとしても、それでも我々は参加する国、参加できる国を集めて一つにまとめていかなければならない。

と発して、「The United States of Europe(ヨーロッパ合衆国)」と言う概念について述べる演説を行いました。

ヨーロッパにおけるアメリカ合衆国のような存在の必要性を訴えた演説は、今日の欧州連合を見ると、チャーチルが行ってきた演説の中で最も預言的な内容を含むスピーチだと言えます。

ヨーロッパという家族を再建する第一歩は、フランス及びドイツの協調でなければならない

とのチャーチルの主張は、とりわけ1946年当時、おそらく今よりはるかに大きな論争を巻き起こしたと言えるでしょう。

1951年にはパリ条約が調印されて欧州石炭鉄鋼共同体が設立され、この経済ブロックは、その後数十年の月日をかけて、今日のEUにまで繋がっていきました。

ウィンストン・チャーチルの演説10「絶望するなかれ」

水素爆弾は、我々の生命と思想の仕組みを驚異的な威力で侵害している。

1955年3月1日に庶民院で行われた、「Never Despair(絶望するなかれ)」のフレーズで知られるこの演説は、チャーチルが庶民院で行った最後の演説であり、イギリスの核兵器に対する方向性を確立したスピーチと言われています。

核兵器に対し慎重な姿勢を見せていたチャーチルは、核兵器のもつ破壊力について、庶民院に警告を発しようとしました。

チャーチルは軍縮さえも考慮に入れていましたが、冷戦時代の国際的な流れのため、演説内容からは除外。

それでもチャーチルは、水素爆弾の効果について悲観的な展望を述べましたが、その後、不意に調子を変え、絶望して破滅の道へ進まないようにと、あえて楽観主義的な発言で演説を締めくくりました。

公明正大な行為、同胞に対する愛情、正義と自由を重んじる心によって、我々が今強いられているこの忌まわしい時代から、苦しみ抜いた世代が、穏やかにかつ意気揚々と歩み出すことができれば、夜は明けるだろう。

それまでは、ひるむなかれ、飽きるなかれ、絶望するなかれ。

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ウィンストンチャーチルの演説「鉄のカーテン」を始めとした10選!のまとめ

ウィンストン・チャーチルの演説を10個見てきました。

チャーチルは、演説の持つ力を信じていたと言えるでしょう。

十分に優れたスピーチ力があれば、「他に支配されない力」を得ることが出来るだけでなく、人々を導くことが出来ると考えていたようなのです。

一方で、当初は演説に失敗することもあったチャーチルは、決して自らを天性の雄弁家とは見なしておらず、むしろ圧倒的な努力を重ねることで、歴史上でも稀に見る優れた演説を数多く世に送り出してきたのです。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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