定義によっても異なりますが、一般的にタタール人とは、旧ソ連圏に主に住んでいる特定のテゥルク系民族のことです。このタタール人について詳しく見ていきます。
ユーラシア大陸には様々な民族が昔から暮らしていますが、その中の民族の一つにタタール人と呼ばれるグループが存在します。
タタール人の定義は歴史の中で様々に変わってきましたが、現在、世界的には旧ソ連圏に主に居住する特定のテゥルク系民族を指すことがほとんどです。
そして、このタタール人達は、ユーラシア最大の国であるロシアにおいて、ロシア人の次に多くの人口規模を抱える民族です。
この記事では、そんなタタール人について詳しくみていきます。
まずは、タタール人を定義することから始め、その後に歴史や言語などについて、そして最後に、タタール人の文化的特徴を見ていきましょう。
タタール人とは?
タタール人(Tatars)とは、テュルク系民族の一つで、現在は主に、ロシアや旧ソ連圏の国々に住んでいる人々。
歴史的に「タタール人」という言葉は、「タータリー(Tartary)」と呼ばれる北・中央アジアの一帯に起源を持つ人々を指し、そこにはテュルク系だけでなく、他にもモンゴロイド系の人々なども含まれていました。
しかし近年は、より狭義に上記のテュルク系諸語を話す人々を指す言葉として用いられることが、世界的な流れとなっています。
そのため、この記事内ではこれ以降、「タタール人」を「ロシアや旧ソ連圏の国々に主に住むタタール人と呼ばれるテュルク系民族」と定義して話を進めていきます。
テュルク系民族とは、中央アジアを中心に、シベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々。
トルコやカザフスタンを始め、アゼルバイジャンやトルクメニスタン、ウズベキスタンやキルギス、そしてロシアのタタールスタン共和国やアルタイ共和国に住む主要な人々のことで、また、中国の新疆ウイグル自治区に住むウイグル人なども、このテュルク系民族に含まれます。
ただし、その居住範囲が広大であり、地域によっては歴史的に他人種と混ざってきたため、例えばトルコ人はよりヨーロッパ系の形質を持ち、逆に中国や中央アジアに住むテュルク系民族はよりモンゴロイド系の形質を持つ違いが存在します。
タタール人の歴史
ロシア連邦の中にはテュルク諸語を話す多くの民族が居住しています。
それらの民族はコーカサス山脈やウラル山脈から東シベリアに至るまでの地域に散在しており、タタール人、チュバン人、バシキール人、サハ人、トゥバ人、カラチャイ人、ハカス人、アルタイ人などです。
そして、ロシア連邦の中でテュルク諸語を話す民族のうち、タタール人は最も人数が多いことで知られます。
モンゴルの弱体化によって誕生したタタール系民族の国々
かつてタタール人は、他のテュルク系民族よりも遥か西方に住んでいました。
1430年代~1440年代、それまでユーラシアで大きな勢力を誇っていたモンゴルの支配力が弱体化するにつれ、ヴォルガ川(ロシア西部を流れるヨーロッパ州最長の川で現在のタタールスタン共和国にも流れる)の流域を中心として、他の地域でも多くのタタール人による継承国家が生まれます(これが、現在、ヴォルガ川近辺以外、例えばウクライナのクリミア自治共和国内にも、タタール人のコミュニティがある理由の一つ)。
(出典:wikipedia)
その国家の中には15世紀~16世紀初頭に、現在のタタールスタン共和国の首都カザンに居住し、そこでタタール人による最大の国家となった「カザン・ハン国」を建国したグループも含まれ、彼らは「カザン・タタール」としても知られるようになりました。
そしてこのカザン・タタール人達は1552年、イヴァン4世率いるロシア軍によって征服され、ロシアの勢力下に併合された最初のイスラム教国となります。
ソ連の下で圧政に苦しんだタタール人
1917年にロシア帝国が崩壊した時、タタール人はその混乱に乗じて即座に自らの国、イデル・ウラル国を形成。
しかし、ソビエト政権はその独立を認めず、代わりにバシキール自治ソビエト社会主義共和国(現在のバシコルトスタン共和国の前身)とタタール自治ソビエト社会主義共和国(現在のタタールスタン共和国の前身)を連邦内に設立。
その後、1922年にソビエト連邦が成立してから崩壊するまで、両自治共和国はソ連の構成国として歩んでいくことになりました。
一方で、ソビエト政権が両自治共和国を併合した時、隣接するロシアの州に優良な土地を含める目的で、国境を引き直しました。
そして、これが主な原因となり、タタール人の大半(75%にも上ると言われる)がタタールスタン国外へと移住。
またこれ以降も、独立を求めたタタールの指導者や知識人の多くは、死刑や国外追放に処されて排除され、この様なタタール人に対する政策は、多かれ少なかれ1950年代初頭まで続きます。
加えて、ソ連時代には経済的困窮から、ロシアの工業地域で職を得るために、多くのタタール人がタタールスタンから出て行きました。
このように、移住を余儀なくされる状況が続いたこともまた、タタールスタン共和国以外の地域にタタール人達が広がっていった理由の一つです。
ちなみにソ連が崩壊してロシア連邦が誕生して以降、タタールスタン共和国はロシア連邦を構成する一つの共和国という位置付けになっており、380〜400万人いる現在の人口の50%強はタタール人だとされています。
タタール人の人口と居住地
タタール人が住む居住地は広範囲に広がっていると言えるでしょう。
タタール人はかつてのソビエト連邦において、ロシア人などを除いた非スラブ系民族の中で、ウズベク人に次いで2番目に人口規模の大きな民族でした。
その大半はロシア連邦に居住する
そのタタール人の人口規模(全世界)は、現在、およそ680万人であると見積もられており、そのうちの約75%(およそ530万人)はロシア連邦内に居住し、これは、ロシア国内ではロシア人に次いで2番目に多い民族集団。
そして、タタール人の国でありロシアを構成する共和国「タタールスタン共和国」には、およそ190〜200万人程度(全タタール人口の28%前後)のタタール人が住んでいます。
(タタールスタンの首都カザン)
ちなみにタタールスタン共和国は、アイルランドやポルトガルと同じぐらいの広さの面積を持ち、また、イスラム教とロシア正教文化の境界地帯です。
加えて、ロシア連邦を構成し、タタールスタン共和国に隣接するバシコルトスタン共和国にも、全タタール人口のおよそ15%前後が居住しています。
ロシア連邦以外に居住するタタール人
一方でタタール人は、ウズベキスタン、ウクライナ、カザフスタン、トルコ、トルクメニスタン、キルギス、アゼルバイジャン、ルーマニア、モンゴルなど、ロシア連邦以外の国にも小さな集団を作って居住しています。
ロシア以外の主だった国におけるタタール人の人口規模は以下の通りです。
- ウズベキスタン(約48万人)
- ウクライナ(約32万人)
- カザフスタン(約24万人)
- トルコ(約18万人)
- トルクメニスタン(約37000人)
- キルギス(約28000人)
ちなみに、ウクライナのクリミアには人口規模およそ25万人のクリミアタタールと呼ばれる集団が住んでおり、その土地面積に対してタタール人が多く居住している地域となっています。
また、クリミアタタールの人々の外見は、ロシア人や他のウクライナ人とほとんど見分けが付かないと言われます。
タタール人の言語
タタール人達はタタール語と呼ばれる言語を話し、これは、テュルク諸語のキプチャク語群に属する言語で、タタールスタン共和国では公用語とされています。
ただし、タタール語は地域によって異なり、
- 西部タタール語
- 中部タタール語
- シベリアタタール語
の3つに大別することが可能。
また、シベリアタタール語は、他のタタール語方言とはかなり異なるため、シベリアタタール語と他のタタール語話者の間では相互理解が難しいと言われます。
一方で、タタール人の中でもクリミアに固まるクリミアタタール人達は、同じキプチャク語群に含まれるものの、タタールスタン共和国で使われるタタール語とは系統の異なる「クリミア・タタール語」を使用します。
タタール人の宗教
タタール人のほとんどはイスラム教スンニ派。
タタール人にとってイスラム教は、歴史の中で重要な役割を果たしてきたと言えるでしょう。
イヴァン4世にタタール人が支配されてから帝政ロシアが終焉を迎えるまで、ロシア政府はイスラム教が他の民族にまで広がらないようにと、タタール人達によるイスラム教の活動を繰り返し制限してきました。
この制限はかえってタタール人イスラム教徒の信仰心をより厚くすることにつながり、タタール人イスラム教徒はイスラム教の戒律を熱心に順守するようになったのです。
ちなみに、タタール人の中には「クリャシェン・タタール」と呼ばれる集団もおり、彼らはキリスト教正教会の教えを受容したキリスト教徒グループです。
また、タタールスタン共和国には、イスラムスンニ派やロシア正教の他に、キリスト教のプロテスタントやルーテル派、そしてユダヤ教などを信仰する人々も少数ですが存在します。
タタール人達の文化的特徴を見ていこう
小さなコミュニティーの連帯が大切にされる
数世紀もの間、ロシア人とタタール人は互いに敵対意識を持っていたこともあり、ロシアに支配されるとタタール人は、ロシア人から差別を受け始め、この状況は何世紀にも渡って続いてきました。
そしてこのことが、ロシア人が多数派を占める社会でのタタール人の生き方に影響を与えたのです。
今日のタタール人は通常、小さなコミュニティを形成してその中で生活しており、コミュニティ内の友人や仕事上の繋がりなど、人脈ネットワークをとても大切にし、また、実際に生きていく上で頼りにしています。
伝統を守るために同族婚が奨励される傾向にある
タタールのアイデンティティ喪失を防ぐためにタタール人は、同族結婚(タタール人同士の結婚)を奨励する傾向にあります。
そして、伝統的にタタール人家族一世帯の大きさは近隣の他民族よりも大きく、3世代以上で構成されることも珍しくありません。
同族婚をして他の世代の家族と暮らすことで、タタール人の一部は伝統的な価値観や文化を守ろうとしているのです。
タタール人の伝統的な食べ物
中央アジアの他の民族と同様に、タタール人の伝統的な料理には主に、子羊の肉や米が使用されています。
タタール料理の中で特に有名な料理は、様々な種類のペストリーでしょう。
なかでもミートパイは代表的で、その中身には牛肉や子羊の肉とタマネギがふんだんに使われ、そこへゆで卵、米、レーズン等が加えられることもあります。
また、チェブレキ(chebureki)と呼ばれる揚げ餃子も比較的知られているタタールの伝統料理です。
タタール人の伝統的な工芸品や文学
現代のタタール人の祖先は、金、銀、青銅、銅を使った宝飾品を制作する熟練の技術を持っていました。
彫刻の装飾が施された陶器、金属製の装飾品、動物を模った青銅製の錠前などの伝統工芸品を制作していたことでも有名です。
また、タタール人によって作られたタタール文学は、ソ連時代の初期に厳しく規制されたにも関わらず、ソ連時代半ばの1960年代以降、タタール人の理想を主張するために度々重要な役割を果たしてきました。
タタール文化に影を落とす歴史的喪失
ロシア帝国時代やソ連時代に多くのタタール人は差別を受け、その中でタタール人の多くは移住を余儀なくされました。
これが結果的にタタール文化を分断。
その時代における人命や財産、そして文化の喪失は、現在のタタール人社会に依然として影を落としていると言えます。
また、クリミアにコミュニティを形成するクリミア・タタール人は、歴史の中でクリミア半島から追放されて強制移住させられたため、より複雑な問題を抱えています。
現在、クリミア・タタール人の約半数は中央アジアからクリミア半島に帰還していますが、文化の継承だけでなく、雇用、住宅、学校教育などの問題にも直面しているのです。
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タタール人とは?テュルク系民族が特徴で旧ソ連圏に主に居住する人々のまとめ
旧ソ連圏に主に居住するテゥルク系民族の一つ、タタール人について見てきました。
タタール人達は、その歴史の中でロシア帝国やソ連による圧政に耐えながらも、たくましく生き抜いてきた人々です。