アングロサクソン人の特徴や意味、そして歴史を知るための手がかりを紹介していきます。イギリス人のルーツと呼ばれる人々について見ていきましょう。
現在のイギリスは、正式名称がグレートブリテン及び北アイルランド連合王国とされる4つの王国の連合型国家で、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドで構成されています。
この4つの中でもイングランドは、グレートブリテン島の歴史の中で最も強大な力を持ち、また最大の領土を獲得した国ですが、このイングランドの基盤を作ったと言えるのがアングロサクソンと呼ばれる人々。
現在のイギリスの根幹をなし、イギリス人について、また、イギリス史を語る上では絶対に無視することのできない存在です。
このアングロサクソン人とはどんな人々だったのか?
その特徴や意味、そして歴史を知る手がかりを見ていきます。
アングロサクソン人とは?
アングロサクソン人とは、簡単に一言で言ってしまえば、
現在のイギリス国民の中心または根幹をなす民族
のこと。
現在の北部ドイツ、デンマーク、スカンディナヴィア南部地帯に広がる大ゲルマニアに住んでいたゲルマン人に含まれる、アングル人、ジュート人、サクソン人の3つの部族の総称です。
なかでもアングル人を中心にドイツ北岸からグレートブリテン島南部に渡り、その後のイングランド人に礎となった一派を、一般的にはアングロサクソン人と呼びます(※同じゲルマン系を祖先に持つドイツ人などはアングロサクソン人と呼ばれることはない)。
ブリタニア(グレートブリテン島とその周辺地域)を5世紀初頭にローマ帝国が放棄すると、後世にはイングランド人となるゲルマン系民族が、小規模な複数のグループに分かれてグレートブリテン島に渡り、同地に住んでいたブリトン人(ケルト系の先住民)を支配すると、そこへいくつかの王国を築きながら分かれていきました。
しかし、アゼルスタン王(895〜939年, 在位924年~939年)の下で、これらの小王国はイングランド王国として政治的に統一されます。
そして、アングロサクソン系のイングランド王国は、1066年に最後の王ハロルド2世がヘイスティングスの戦い(ノルマンディー公ギヨーム2世とイングランド王ハロルド2世との間で戦われた戦い)でノルマン人に殺されるまで続きました(ノルマン・コンクエスト)。
ちなみに、ローマ帝国によるブリタニア放棄からノルマン・コンクエストまでの間の期間は、「アングロサクソン期」と呼ばれることもあります。
アングロサクソン人は自らを指して「アングロサクソン人」と呼んだわけではありません。
この呼称は8世紀頃、ブリテン島に住むゲルマン系の人々と、大陸におけるゲルマン人を区別するために初めて使われ、その後、ブレートブリテン島のゲルマン系の人々を指す呼び名として定着していったようです。
例えば786年、教会の会議に出席するためにイングランドに旅したオスティア(現在のイタリア)の大司教が法王への報告の中で、アングロサクソン人が住んでいた地域のことを「アングル・サクソニア」と呼んでいます。
アングロサクソン人の特徴や意味そして歴史を理解するために抑えておきたい6つのこと
アングロサクソン人がグレートブリテン島に侵入してきた理由とは?
アングロサクソン人がグレートブリテン島に侵入してきた理由についての一つの説として、気候変動説が存在します。
西暦400年以降、ヨーロッパの平均気温は気候変動によって現在より1℃も高い状態となり、夏の気温が高いことで農作物の収穫が多く、北ヨーロッパでは人口が増加しました。
しかし、気温上昇は北極の氷を溶かすことになり、低地とくに現在のデンマーク、オランダ、ベルギーなどでは洪水が頻発。
この状況に追い詰められた北部ヨーロッパの住人達(主にゲルマン系民族)は、洪水の起きない地域を求めるようになっていき、その候補の一つがグレートブリテン島だったのです。
そしてローマ帝国の軍隊がいなくなったグレートブリテン島は防衛力が弱まったこともあり、移住にはうってつけの場所と考えたゲルマン人の一部が、この地へ移ってきたと言われます。
一方で、このゲルマン系民族の南下を誘発したのは、アジア系遊牧騎馬民族のフン族が西側へ移動してきたことによるものとも言われます。
とにかく、このゲルマン人の南下は、複数の要因が重なって引き起こされた「ゲルマン民族の大移動」と呼ばれる動きの一部として起き、その過程でゲルマン系の一派がグレートブリテン島へ進出していったのです。
アングロサクソン人の広がりと多民族との混合
アングロサクソン人はまず、現在のイングランド東部に住み着き、そこから西部や北部に拡大していったと考えられています。
一方で、上でも触れた通り、アングロサクソン人が移り住んだ時、この地にはすでにブリトン人が居住していたわけですが、多くのブリトン人はアングロサクソン人の侵攻によって文化的に駆逐されたり同化させられていきました。
これは、
- アングロサクソン人は長年ブリテン島のローマ軍の中で傭兵として活動していたため、この地域についての知識があった
- 彼らの侵入は時間をかけて行われ、実際にはローマ軍がこの地域を離れる前からすでに始まっていたとも言われる
- アングロサクソン人は初めのうちこそ少人数だったが、すぐにその数が増えていった
- 当初は抵抗したブリタニアの住民には強力な防衛手段がなかった
といった背景によって後押しされたと考えられます。
しかし、現在のイギリスを構成する国の一つであるウェールズ地方は、ブリトン人の影響力が強いまま残り、またイングランド北西部のカンブリア地方やイングランド南西端のコーンウォール地方は、他の地域が続々アングロサクソン人に支配されていく中、長いこと抵抗を続けたことで知られます。
このように、ゲルマン系民族人がグレートブリテン島に到達した時にはすでにブリトン人がいたことから、その後にイングランド人と呼ばれていくアングロサクソン人達は、元々のゲルマン系民族とブリトン人の混合だと考えられます。
さらに、アングロサクソン人達の祖先は実際のところ、3つのゲルマン民族「アングル人、サクソン人、ジュート人」が祖先と言われるほど単純なものではなかったようです。
これは、グレートブリテン島へ来る以前から大陸において他の民族やゲルマン系の部族とかなり混交していたと考えられるからです。
アングロサクソン人の言語
アングロサクソン人は、古英語と呼ばれる言語を話しました。
これは今日の英語の先祖で、最も近いのは、古フリジア語、古ノルド語、古高地ドイツ語などのゲルマン系の言語です。
また、地域によって、西サクソン方言、ノーサンブリア方言、メルシア方言などの、異なる方言が話されていたようです。
一方で、アングロサクソンが支配した地域であっても、若干ながら他の言語が話されていたこともあったと言われます。
例えば、教会と学問の言語であるラテン語、コーンウォール語、初期の伝道師が使用したアイルランド語などで、9世紀にヴァイキングがイングランドに上陸して以降は、北部や東部で古ノルド語が多くはなされた時期もありました。
アングロサクソン人の宗教
彼らが当時信仰していた宗教に関しては非常に情報が限られていますが、5世紀および6世紀にかけて最初にグレートブリテン島に定住したアングロ・サクソン人達は、キリスト教徒ではない異教徒だったことが分かっています。
例えば、初期のアングロサクソン人達は、キリスト教で実践される土葬よりも火葬を好んでいたことが明らかになっています。
また、アングロサクソン神話に登場する数々の王国や支配者は、ゲルマンの神「ウォドン(Woden:北欧神話ではオーディンとして知られる)」の血筋を引いているとされていました。
その後の6世紀後半、ローマ教皇グレゴリウス1世(在位590年~604年)は、ケント王国(ジュート人の王国)のエゼルベルト王(560年頃〜616年)をキリスト教徒に改宗させるため、イタリア人修道士アウグスティヌスを同地へ派遣。
これ以降、アングロ・サクソンの小王国達は数々の小競り合いを経ながらも、ローマの宣教師団とアイルランドの修道士の影響の下、翌世紀までの長い時をかけてキリスト教を受容していき、キリスト教国イングランドの基盤が出来上がっていったのです。
アングロサクソン七王国
グレートブリテン島にアングロサクソン人達が侵入後、彼らは同島の南部から中部にかけて幾つかの小王国を建国していきました。
これらの小国は、9~10世紀にかけてアゼルスタン王の治世の下でイングランド王国として政治的統一がされていったわけですが、それ以前には7つのアングロサクソン人による王国が競い合う時代が存在し、この時期は「七王国時代」、そして七つの王国は合わせて「アングロサクソン七王国」と呼ばれます。
このアングロサクソン七王国に含まれる国々は以下の通りです。
- ケント王国
- イングランド南東部にあった主にジュート人による国
- 同王国のエゼルベルト王は595年頃、アングロサクソン人の王として初めてキリスト教に改宗したことで知られる
- マーシア王国
- イングランド中央部の広大な領土を支配したアングル人による王国
- 最盛期の同国を治めたオッファ王は、ウェールズとの境界にオッファの防塁と呼ばれる歴史上稀に見る長大な城壁を築いたことで知られる
- ノーサンブリア王国
- イングランド北東部を支配したアングル人による王国
- 現存する最古のイングランドの通史である「英国民教会史」が、同国出身の僧侶ベーダによって8世紀初頭頃に記される
- イースト・アングリア王国
- イングランド南東部のイーストアングリア地方にあったアングル人の王国
- 現在のノース・フォークとサウス・フォークで構成されていた
- エセックス(イースト・サクソン)王国
- イングランド南東部に存在した
- 991年にバイキングとの間で有名なモルドンの戦いが行われた
- ウェセックス(ウェスト・サクソン)王国
- イングランド南西部に存在した王国
- アングロサクソン期における最大の王で大王と呼ばれたアルフレッド大王に率いられた
- サセックス王国
- イングランド南部に建国された王国
1066年にアングロサクソン人達に何が起こったのか?
アングロ・サクソン期のイングランドは、11世紀中に一度でなく二度の征服を経験しました。
デーン人(現在のデンマークおよびスウェーデンのスコーネ地方に居住した北方系ゲルマン人の一派)の王「クヌート1世」は1016年、アングロサクソン人の王朝を追い出し、クヌート1世およびその息子が1042年までイングランドを治めました。
続いて、イングランドのサクソン系の王であるエドワード懺悔王(エドワードざんげおう)が一時期実権を握った後、最後のアングロサクソン系の王「ハロルド2世」が1066年10月14日、ヘイスティングスの戦いで殺害されました。
生き残ったイングランドの諸侯にハロルド2世の後継者としてエドガー・アシリング(1126年頃没)が選ばれましたが、実権を握ることも王に即位することもなく、ヘイスティングの戦いに勝利したノルマンディー公に続くノルマン朝がその後、一世紀近くもイングランドに君臨することになります。
しかしだからと言って、これ以降、アングロサクソン人が消滅してしまったということではありません。
アングロサクソン人達は、引き続きイングランド最大の人口を占める民族であり続け、他の民族と混合しながら現在のイギリス人の基盤となっていったのです。
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