アルメニアの歴史をポイントごとに分けてわかりやすくまとめていきます。アルメニア王国から現在のアルメニア共和国が出来るまでの流れを確認していきましょう。
南コーカサスに位置するアルメニアは、小国でありながら非常に長い歴史を持つことで知られます。
現在筆者はアルメニアへ在住していますが、この「アルメニア共和国」については、日本語でそこまで多くの情報が見つかりません。
ましてやアルメニアの歴史に関しては、インターネット上でほとんど見つけることができないです。
そういった状況なので、Little Armeniaによって公開されている「THE HISTORY OF ARMENIA」というページを元に、そこへもう少し情報を加えた形で、アルメニアの歴史についてまとまった記事を作成してみたいと思います。
- アルメニアの歴史① 古代アルメニア(紀元前3500年~紀元前520年)
- アルメニアの歴史② アルタクシアス朝「初のアルメニア王国」
- アルメニアの歴史③ アルサケス朝「第二のアルメニア王国」
- アルメニアの歴史④ ペルシャとビザンツ帝国へ分割されたアルメニア
- アルメニアの歴史⑤ バグラト朝「第三のアルメニア王国」
- アルメニアの歴史⑥ ルーベニアン(ルビニアン)朝「第四のアルメニア王国」
- アルメニアの歴史⑦ トルコ(オスマン帝国)支配下のアルメニア
- アルメニアの歴史⑧ アルメニア人大虐殺
- アルメニアの歴史⑨ ナゴルノ・カラバフ問題
- アルメニアの歴史⑩ 独立国家「アルメニア共和国」
- 合わせて読みたい世界雑学記事
- アルメニアの歴史|アルメニア王国からアルメニア共和国が出来るまでのまとめ
アルメニアの歴史① 古代アルメニア(紀元前3500年~紀元前520年)
アルメニアは世界で最も古い国の1つで、記録が残っているだけでも紀元前3500年に遡ります。
「ハイアサ・アジ」族
現代のアルメニア人の最も古い祖先の一つは、ハイアサ・アジ(Hayasa-Azzi)族、またはプロト・アルメニア人と呼ばれる人々でした。
ハイアサ(ハヤサ)・アジ族は、
- 東アナトリアのアルメニア高原の先住民族
- 紀元前13世紀まで続く「ナイリ部族連合」を結成
といった点で知られます。
ちなみに、バビロニア王「ベル」との戦いで有名な伝説上のアルメニア人の父祖「ハイク王」は、おそらくハイアサ族の首長だったのではないかと考えられています。
また、「ナイリ」や「ナイリ人」は、今日においてもアルメニアやアルメニア人を指す詩的な表現として使われています。
「アルメン人」
紀元前2千年紀の終わり頃、トラキア人やフリギア人に近い別のインド・ヨーロッパ系の民族が、バルカン半島北部からアルメニア高原に移住。
古代ギリシャ人はこの人々を「アルメン人」と呼びました。
この移住の出来事を反映しているギリシャ神話によると、
アルメニア人の祖先である「アルメニオ達(※アルメン人のことだと思われる)」は、黄金の羊の皮を探す旅に出た英雄イアソンに追随したアルゴナウタイ(アルゴー船の船員)であった
そうです。
また紀元前1115年にアッシリア王のティグラト・ピレセル1世は、アッシリアのガドモフ(Gadmokh)地方で2万人を超えるアルメン人の軍隊と戦ったという記録が残っています。
ハイアサ人とアルメン人が混じり合って生まれたアルメニア人
今日のアルメニア人は、先住民族のハイアサ人と、その後に東アナトリアへ移ってきたアルメン人という、主に2つのグループが、歴史を超えて混ざりあって誕生した民族だと考えられています。
アルメニア人が2つの異なる民族のミックスであることは、言語にも反映されています。
例えば、アルメニア人はハイアサという語源から、自らのことを「ハイ」、また自国(アルメニア)のことを「ハヤスタン」と呼んでいます。
一方で、アルメン人を語源とした「アルメニア」という呼称は、外国人によって用いられています。
アルメニア語は大部分がアルメン人の言語に由来しており、インド・ヨーロッパ語族のトラキア・フリジア系の言語の中で「唯一現代まで残っているもの」です。
もちろん、ハイアサ語の語彙や文法も多く混ざっており、また少数民族が話した非インド・ヨーロッパ系の言語にも大きな影響を受けています。
アルメニア高原に誕生した初期の主要王国「ウラルトゥ」
現在のトルコ東部から、アルメニア全体、そしてアゼルバイジャン、ジョージア、イランの一部にまたがる「アルメニア高原」に誕生した最初の主要国は、当時としては非常に発展した技術を誇った「アララト王国(首都はトゥシュパ、今日のヴァン)」でした。
アララト王国はアッシリア人による呼称である「ウラルトゥ」としても知られます。
この王国は紀元前11世紀に誕生し、紀元前7世紀まで続きました。
一方、国民の多くはアルメニア人であったにも関わらず、支配王朝はアルメニア人でもなければ、インド・ヨーロッパ系の民族でもありませんでした。
紀元前782年、ウラルトゥ王のアルギシュティ1世はエレブニという要塞都市を築き、これは今日のアルメニアの首都エレバンとなったと言われます。
また、ウラルトゥの他の主要都市アルギシュティヒニリも、紀元前775年に同じアルギシュティ1世によって建設されたようです。
しかし、アッシリアの攻撃によって紀元前700年前後になるとウラルトゥ王国は弱り、紀元前585年にはスキタイ人の攻撃によってついに王国は崩壊してしまいます。
その後少しすると、同地にはアルメニア系のオロンティド朝が誕生しました。
古いウラルトゥの名も使い続けられましたが、アルメニアという呼称もこの頃初めて使われるようになったと言われます。
ペルシア王ダレイオス1世(紀元前522年~486年)の記録を記したベヒストゥン碑文では、用いられている3言語のうち、古代ペルシア語とエラム語では「アルメニア」と記されており、これに対してアッカド語では「ウラルトゥ」と書かれていたといった具合です。
アルメニアの歴史② アルタクシアス朝「初のアルメニア王国」
オロンティド朝支配下のアルメニアは、アケメネス朝ペルシアの管轄領(サトラップ)となり、その後セレウコス朝に受け継がれます。
そして紀元前190年、アルタクシアス1世(紀元前230年頃〜紀元前160年)の時にアルメニアは完全独立を果たし、アルタクシアス朝が築かれました。
別な言い方をすると、
- アルメニア人による初の独立国家であるアルメニア王国
が誕生したのです。
大アルメニア王国と呼ばれたこのアルメニア王国は拡大を続け、ティグラネス大王や「王の中の王」と呼ばれるティグラネス2世(紀元前95年~紀元前55年)の頃には最大領土に達し、一時は小アジアにおける最強の国家となりました。
アルメニア王国は隣国パルティアから大量の領土を奪った後、パルティアに迫って同盟を締結。
イベリア(ジョージア)、コーカサスアルバニア、そしてアトロパテネの宗主国でもあり、紀元前83年にはシリアをも征服しました。
当時、ティグラネス大王の遠征は、プトレマイオス(現在イスラエルのアッコ)にまで達したと言われ、アルメニア王国の領土は、
- 東はカスピ海から西は地中海まで
- 南はメソポタミアから北のクラ川まで
と広がっていた巨大なものとなったのです。
またこの頃、政治制度の強化と領土の拡大に加え、アルメニアではそれまでにないほどの文化の発達が見られました。
これは、ウラルトゥから受け継がれた伝統文化にヘレニズム要素が混ざりあった結果です。
実は、アルタクシアス朝アルメニアは、小アジアにおいて最も強くヘレニズムの影響を受けた国であり、また最も文化的に発達した国でした。
ティグラネス2世の死後、アルメニアは征服領土の大半を失い、元々のウラルトゥ程度の規模に戻ります。
さらに、周辺ではローマ帝国とペルシアが領土戦争を繰り返しており、両者ともにアルメニアを味方につけようと必死でした。
ローマとペルシア、どちらが小アジアの覇権を握るかは、強力な軍事力を持つアルメニアの動きにかかっていたのです。
アルメニアの歴史③ アルサケス朝「第二のアルメニア王国」
1世紀半ばの西暦66年頃、アルサケス朝アルメニアが誕生しました。
この王朝はペルシアの王族と親戚関係にあったため、古代イランの王朝であるアルサケス朝パルティアと同じ名字になっています。
この頃アルメニアは、ローマ帝国とアルサケス朝パルティアと同盟関係にあり、平和な協力体制を築いていましたが、251年にペルシアではササン朝が力を握ります。
ササン朝は古い王朝と同盟を結んでいたアルメニアを敵対視し、反アルメニア政策を打ち出しました。アルメニアを滅ぼして領土を占領しようとし、実際に252年にはササン朝ペルシアによってアルメニアは占領されてしまいます。
この状況は287年にローマがアルメニアを取り戻すまで続きました。
世界初のキリスト教国となったアルメニア
ちなみに、ササン朝が反アルメニアの政策を正当化するために理由としたことの一つが、
当時のアルメニアにおける宗教または信仰は、
- アルサケス朝パルティア的ゾロアスター教(ミスラ教)
- 古代ローマの多神教
に似ていたから
というものでした。
これに対抗するというのも一つの動機となり、アルメニア王のティリダテス3世(※1世紀に生きたパルティアのティリダテス3世とは違う)は、301年にキリスト教を受け入れて国教化。
こうしてアルメニアは世界初のキリスト教国家となり、啓蒙者グレゴリウスがアルメニア教会初の指導者(カトリコス座)となりました。
ちなみに、ローマ帝国でキリスト教が合法となったのはこの12年後のことです。
アルメニアの歴史④ ペルシャとビザンツ帝国へ分割されたアルメニア
4世紀の終わりごろになると、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)とササン朝ペルシアがそれぞれ、アルメニアを分割して支配するようになりました。
アルサケス朝アルメニアは428年に解体され、
- 東アルメニア → ペルシア側
- 西アルメニア→ ビザンツ側
の支配下に置かれたのです。
一方で、ササン朝はキリスト教徒となったアルメニア人達へゾロアスター教への改心を強要したため、アルメニア軍の将軍であったヴァルタン・マミコニアン王子の指導の下で451年、アルメニアは反乱を起こします。
ペルシアと比べて数で劣っていたアルメニアは伝説に残るアヴァライルの戦いで敗れ、ヴァルタン・マミコニアン自身も殺されてしまいますが、最終的には勝利を収めました。
そしてこれによってペルシアは、アルメニア人を改心させて吸収しようとするのをやめ、アルメニアに自治権を与えたのです。
アルメニアのキリスト教の独立性が確立される
続けて554年、アルメニアは宗教上の独立をさらに強めます。
第二次ドゥヴィン会議(ドゥヴィンは当時のアルメニアの首都)において、カルケドン公会議(451年)で採用された両性説(イエス・キリストが神性と人性を持つという考え方)を拒否。
これによりアルメニア使徒教会は、ギリシャの正教会やローマのカトリック教会とははっきりと袂を分かつこととなりました。
アラブの侵攻
テオドル・ルシュトゥニ王子の下、アルメニアは事実上の独立国家となります。
しかし、634年にアラブ人からの侵略を受けます。
アラブ人はペルシア占領後アルメニアに兵力を集中させるようになりましたが、最終的にアルメニアが占領されたのは654年でした。
アルメニアの歴史⑤ バグラト朝「第三のアルメニア王国」
二百年以上にわたるイスラム帝国との攻防を経て、アルメニアは886年に独立を回復し、イスラム帝国および東ローマ帝国は共に、アショット1世をアルメニア王国の王として承認。
アショット1世を祖とするバグラト朝の統治下でアルメニアは、政治的、社会的、文化的に発展を遂げ、その水準は最高潮に達しました。
またこの時代、アルメニア王国の首都であった「アニ」は、
- 1001の教会から成る都
として知られる壮大な都市で、今日ではトルコ領に含まれるものの、現在でも多くのアルメニア人にとって大切な場所となっています。
しかし、
- 10世紀末までにバグラト朝アルメニア王国は、異なる国や民族の侵略によって国土が荒廃していたこと
- 当時のビザンツ帝国はアルメニアに起源を持つ王朝が統治していたこと
などの理由から、最終的に1045年、アルメニア王国はビザンツ帝国に併合されてしまいました。
ちなみに、バグラト朝アルメニア王国の崩壊にあたっては、多くのアルメニア人が故郷を離れて他の地域へ渡り、世界中に散らばるアルメニア人ディアスポラ(離散民)の基盤となっていきました。
アルメニアの歴史⑥ ルーベニアン(ルビニアン)朝「第四のアルメニア王国」
バグラト朝の崩壊前には、一般市民だけでなく多くのアルメニアの王族達もアルメニアから脱出し、地中海の北東部に面した地域「キリキア(現在のトルコ南部にある地域)」へ逃れ、その地ではアルメニア人が人口の大半を占めるようになります。
そして1080年、アルメニア人指導者「ルーベン王子」がキリキアに新たな王国を建国し、キリキア・アルメニア王国または小アルメニア王国として知られる、ルーベニアン朝が成立しました。
この新たなアルメニア王国は、ヨーロッパ諸国ときわめて親密な関係性を築き、十字軍遠征の時代にはエルサレムへ向かうキリスト教徒軍に対して「安全な避難場所と交通路」を提供するなど、極めて重要な役割を果たしています。
さらに、ヨーロッパの十字軍参加国の王族との異民族間結婚が頻繁に行われ、ヨーロッパから宗教、政治、文化について大きな影響を受け、例えば、多くのフランス語の単語がこの地域で話されていたアルメニア語に流入していきました。
また、キリキア・アルメニア王国は、ヴェネツィア人およびジェノヴァ人の東方貿易においても重要な役割を果たしたようです。
1375年にキリキア・アルメニア王国が滅亡
トルコ、モンゴル、エジプトおよびビザンツ帝国の絶え間ない攻撃に耐えながら、キリキア・アルメニア王国は3世紀に渡り存続しました。
しかし1375年、エジプトのマムルーク朝に屈して滅亡。
これにより、「アルメニア王国」と呼べる存在はついに終焉を迎えます。
ちなみに、キリキア・アルメニア王国の最後の王「レヴォン6世」はフランスへ移住し、その墓は現在もパリのサン・ドニ大聖堂にあります。
また「アルメニア王」の称号は、キプロス王へ、そしてヴェネツィア人へと移り変わり、後にヨーロッパでも屈指の貴族「サヴォイア家」がその称号を1485年から1946年まで名乗りました。
アルメニアの歴史⑦ トルコ(オスマン帝国)支配下のアルメニア
キリキア・アルメニア王国の滅亡後、歴史的に見てアルメニアの国土であった大アルメニア王国の土地は、さまざまなイスラム教徒の将軍の支配下に置かれることとなります。
そして最終的に、
- 西アルメニア → オスマン帝国
- 東アルメニア → ペルシア
に分割されることになりました。
一方で、こういった状況の中でも、いくつかのアルメニア人による公国はかろうじて独立や自治を維持。
なかでも最も有力だったのは、5つの同盟関係にある公国から成っていたアルツァフ(現在のナゴルノ・カラバフ)のハムサ連合で、他にも事実上のアルメニア人による独立公国が、西アルメニアのササンおよびゼイタンといった地域に存在していました。
また、何百年にもわたり国家としては消滅寸前の状態にあったにもかかわらず、アルメニア人は一つの大きなコミュニティとして、宗教的、文化的なアイデンティティを保持し、発展させていきます。
さらに、アルメニア建築は別として、アルメニア人は、文学、絵画、彫刻および音楽の分野で自分たちのアイデンティティを巧みに表現してきました。
アルメニア人は、母語で書かれた文書を世界で10番目に印刷した民族としても知られます。
アルメニア人問題
1828年、ロシア帝国が東アルメニアをペルシアから奪います。
この結果として、ロシアおよび西ヨーロッパのリベラル思想と接触したことは、19世紀に起こったアルメニアのルネッサンスとも言える文化や芸術の発展の大きな要因となりました。
また、オスマン帝国においてアルメニア人は当初、オスマン帝国下の他の住民と同じく「タンジマート」として知られる改革運動の恩恵を受けていただけでなく、1863年にはオスマン帝国政府によって特別なアルメニア憲法と呼べるものが承認されています(※ただし、こうした自由は首都コンスタンティノープルの外側では知られておらず、アナトリア地方に暮らすアルメニア人の状況は耐え難いものだった)。
このようにアルメニア人は、オスマン帝国下ではかなりの自由を認められて平和に暮らしていました。
しかし、
- オスマン帝国
- ヨーロッパ列強諸国
との間に、いわゆる「アルメニア人問題(Armenia Question)」と呼ばれる問題が生じます。
これは、
19世紀に入るとアルメニア人の中からカトリックへの改宗などを通じて西ヨーロッパ諸国の庇護を受け、特権を享受する者が現れ、ムスリム住民との間に軋轢が生じ始め、また富裕層の間から西ヨーロッパとの交流を通じて民族主義に目覚める者が現れ始めた(引用:wikipedia)
などと言った背景から生じた、アルメニア人に対する懸念です。
東アルメニアが参戦した1877年~1878年の露土戦争(ロシアとオスマン帝国の戦争)の終結後、ロシアはサン・ステファノ条約で、
- オスマン帝国の支配下にあるアルメニア系住民について改革を実行すること
- クルド人からアルメニア系住民を保護すること
を主張しました。
ロシアはベルリン会議でこの要求姿勢を軟化させましたが、これによってアルメニア人を取り巻く状況が、国際政治問題として未解決のまま残ることとなりました。
さらに、バルカン半島の領土の大半を失ったオスマン帝国は、西アルメニアをも失うことを恐れていました。
それは、オスマン帝国が描いていた、
- バルカン半島から黄海に広がる汎テュルク語族の帝国建国の夢の終焉
を意味していたからです。
結果的に、オスマン帝国政府は内密に「アルメニア人問題の最終解決を目指す新たな国家政策」を創案。
3500年におよぶアルメニア人の歴史的な国土から、アルメニア人を完全に消滅させるという動機が強まっていくことなります。
そして、オスマン皇帝アブデュルハミト2世の統治下で、アルメニア人に対する虐殺が始まっていくようになりました。
1895年、アブデュルハミト2世がイギリス、フランス、ロシアに対して、改革の実行を約束する圧力に迫られると、アルメニア人が居住する各地域では、大規模かつ組織的な虐殺が行われ、1896年には首都やキリキアで、さらに多くの虐殺事件が起こりました。
アルメニアの歴史⑧ アルメニア人大虐殺
19~20世紀初頭のオスマン帝国において、アブデュルハミト2世の専制政治を打倒して憲法に基づく憲政の復活を目指した青年トルコ党が、クーデターによってオスマンて帝国の実権を握ると、
同時に、
アルメニア人を排除せよ、アルメニア問題を消滅させよ
という政策が青年トルコ党の最優先課題となりました。
そして、当時は第一次世界大戦中だったこともあり、混乱によって生み出された政治的に優位な立場を利用して青年トルコ党政権は、1915年4月24日、
- 「アルメニア人問題の最終解決」
として、コンスタンティノープル在住の数百人ものアルメニア系知識人を、裁判にかけることなく処刑。
さらに、アナトリア東部のアルメニア人地域では、15歳から62歳までのアルメニア人男性が残らず徴集され、武器を取り上げられて処刑されました。
無防備なアルメニア人女性、子どもおよび高齢者は、シリアの砂漠デリゾールへ送られ、そのほとんどが移送途中で、トルコ人兵士やクルド系遊牧民によって殺害されたり、あるいは飢餓や憔悴によって命を落としました。
この20世紀初のジェノサイド「アルメニア人虐殺」では、西アルメニアのアルメニア人口の80%にあたる150万人以上のアルメニア人が犠牲になったと言われます。
一方で、この大虐殺を生き延びた数十万人は近隣諸国に難民として逃れ、過去にアルメニアを離れて世界中に散らばっていたアルメニア人達も合わせ、現在、世界各地に離散しているアルメニア人ディアスポラコミュニティの強固な基盤となっていきました。
1923年までに西アルメニアは完全に脱アルメニア化され、新たに建国されたトルコ共和国の一部に組み入れられた結果、かつてはアルメニアの首都とした栄えたアニや、アルメニア人にとって神聖なアララト山などは、現在トルコ領となってしまっています。
アルメニアの歴史⑨ ナゴルノ・カラバフ問題
1922年から始まったソビエト時代は、アルメニアにとっては比較的安全で、大きな経済発展および文化的、教育的な成就を成し遂げた時代でした。
しかし同時期、アルメニアと隣国のアゼルバイジャンが古くから領有権を主張していたナゴルノ=カラバフに関する問題が浮上してきます。
このナゴルノ=カラバフに関しては、
- アルメニア人側
- カラバフ(アルツァフ)は古代アルメニア王国の時代から数千年に渡るアルメニア文化の中心地である
- アゼルバイジャン人側
- 自分達はコーカサスアルバニア人の末裔で、アルメニア人よりも古くにコーカサスアルバニア王国を形成していたカラバフ一帯の先住者である
とそれぞれ主張しており、平行線を辿っていました。
それにも関わらず、後のソ連共産党となったボリシェヴィキによって、一旦は1921年7月4日にアルメニア領として組み込まれます。
しかし、これにアゼルバイジャン側が猛反発したこともあり、住民の多くはアルメニア人だったものの、1923年7月7日にはアゼルバイジャン内の自治州という形でナゴルノ=カラバフ自治州が設置されてしまいました。
この後、アルメニア側のナゴルノ=カラバフ編入への運動は大きくなり、それに対抗する形でアゼルバイジャン側は、スムガイト、キロヴァバード、バクーなどのアゼルバイジャンの各都市にてアルメニア人を虐殺。
これにより平和的運動は暴動へと姿を変え、ついには1988年、アゼルバイジャン政府がナゴルノ・カラバフのアルメニア系住民に対する軍事的鎮圧行為に出た結果、ナゴルノ=カラバフ戦争と呼ばれる戦争が勃発してしまいました。
その後、ソ連からアゼルバイジャンが1991年8月30日に独立すると直ぐの1991年9月2日に、ナゴルノ=カラバフはアゼルバイジャンからの独立を宣言。
またナゴルノ・カラバフ共和国とアルメニア側は、かろうじてアゼルバイジャン軍の侵攻に勝利し、ナゴルノ・カラバフ領土一帯に安全地帯と、アルメニア本国へ繋がる回廊を確保しました。
しかし、ナゴルノ・カラバフは国際社会から独立国家として認められておらず、現在も紛争が断続的に起こっており、アルメニアとアゼルバイジャンの関係は冷え込んだままとなっています。
アルメニアの歴史⑩ 独立国家「アルメニア共和国」
ちなみに現在のアルメニアは正式名称「アルメニア共和国」と呼ばれ、1991年9月21日にソ連から独立を果たしています。
また、1992年3月2日には国際連合の加盟国となって、2001年1月25日には欧州評議会の加盟国となりました。
そして、2018年には、ソ連崩壊後からおよそ20年続いた政治の腐敗や汚職を一層するために立ち上がった人々によって、無血革命として世界的に大きく報道された「ビロード革命」が起こり、今後の成長が期待されています。
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アルメニアの歴史|アルメニア王国からアルメニア共和国が出来るまでのまとめ
とても長くなってしまいましたが、古代から現代にかけてのアルメニアの歴史をまとめてみました。
アルメニアについて知るためにも参考にしてください。