ヨシフ・スターリンとスターリン体制下のソ連について詳しく解説していきます。大粛清などの恐怖政治を敷いてソ連を支配した、独裁者スターリンについて見ていきましょう。
最高指導者としてソビエト連邦の初期を主導した「ヨシフ・スターリン」は、現代史やロシアの歴史を語る上では絶対に無視することは出来ない人物で、一度は耳にしたことがある名前でしょう。
一方で、スターリンは非常に有名な歴史的人物と言っても、良い意味ではなく恐怖政治を敷いたソ連の独裁者として知られます。
スターリンは、一体どんな体制を築き上げてソ連を支配したのか?そのスターリン体制下にあったソ連では、どのような恐怖政治が行われたのか?
有名な大粛清なども含め、ヨシフ・スターリンとスターリン体制下のソ連について詳しく見ていきたいと思います。
ヨシフ・スターリンとは?
ヨシフ・スターリン(1878年12月18日〜1953年3月5日)とは、1922年4月3日から1953年3月5日まで、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の「連邦共産党書記長」を務めた人物。
また、ウラジーミル・レーニンが死亡した後、共産党内のライバルであったレフ・トロツキーと激しい大対立を繰り返しながらも1929年までには共産党の権力を掌握し、俗に言う「スターリン体制」を作り上げた人。
(出典:wikipedia)
一方で、この頃から、レーニンの後継者である第2代最高指導者としてソ連を実質的に主導し(注1)、「独裁者」としての顔を持っていたことでも有名。
スターリン体制の下で、ソ連は農村社会から産業そして軍事の超大国へと変貌を遂げましたが、同時に恐怖政治が展開され、何百万ものソ連国民が命を落としたのです。
ちなみに、ヨシフ・スターリンの姓である「スターリン」とは「鋼鉄の人」を意味するいわゆるペンネームで、本姓は「ジョガシヴィリ」であり、ソ連で中心的な役割を果たしたロシアではなく、現在のジョージア(元グルジア)出身です(注2)。
(注釈1)スターリンが党書記長に就任した時点では、同ポストが党の最高指導者の地位だという認識は党内で確立していなかった。しかし、スターリンが党内の権力を掌握したことで「書記長」が名実ともに最高ポストとなる。そのため、レーニンが亡くなった1924年1月21日の翌日の22日以降から1953年3月5日までをスターリンが最高指導者であった時期とする見方もある。
(注釈2)スターリンが生まれたジョージアのゴリは、地域的には現在のロシアとは異なるが、当時、ロシア帝国の一部として併合されていたため、ロシア出身とも言えなくはない。
ヨシフ・スターリンとスターリン体制下のソ連を歴史の流れを追いながら見ていこう
ヨシフ・スターリンの生い立ちと家族
貧しい家庭に生まれたヨシフ少年
ヨシフ・スターリンの本名は、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Josef Vissarionovich Djugashvili)と言い、1878年12月18日(旧ユリウス暦では12月6日)に、当時ロシア帝国の一部であったジョージア(グルジア)の小さな町ゴリで生まれました。
(スターリンが生まれたとされる家)
ヨシフ少年の父親は靴職人でヘビースモーカーの大酒飲み。しばしば息子に対して暴力を振るっていたと言われ、また、母親は洗濯屋(クリーニグ店)で働いていました。
そのため、ヨシフ少年の生家は決して裕福ではなく、どちらかというと貧しい幼少期を過ごします。
またこの頃、ヨシフスターリンは天然痘にかかり、その跡はヨシフ・スターリンの顔に生涯残ることとなりました。
さらに不運なことに、一度ならず2度も馬車に轢かれたため、永遠に影響が左腕に残ることとなります。
しかし、このような不運の結果、参加したら命を落としていたかもしれない第一次世界大戦(1914〜1918)で兵役を免除されたのは、不幸中の幸いだったのかもしれません。
奨学金を獲得して神学校へ進学するものの・・・
10歳になると、ヨシフ少年は奨学金を獲得したことで、ジョージアの首都トビリシ近隣にある、正教の神学校で学び始めます。
(1894年に撮影された15歳時のスターリン:出典:wikipedia)
しかし神学校で学んでいた頃、彼は密かにドイツの哲学者であり「共産党宣言」の著者「カール・マルクス」の著書に傾倒するようになり、ロシアの君主制を倒す革命運動に興味を持つようになりました。
そして1899年、スターリンは試験を無断欠席したために神学校から追放されてしまったのです(彼はマルクス主義のプロパガンダのためだと主張しましたが、認められなかった)。
地下活動を主軸として政治活動家となったスターリン
学校を去って無心論者となったスターリンは、マルクス主義に基づいた革命運動の政治活動家となり、地下での活動を軸にしながら労働者のデモやストライキに参加するようになります。
スターリンはジョージアの伝説的な架空のアウトローにちなんで「コバ(Koba)」という名前を名乗るようになり、ウラジーミル・レーニンが指導するボリシェビキ(マルクス的社会民主主義運動のうち、より過激なグループであり左派の一派)の一員になったのです。
(23歳のスターリン:出典:wikipedia)
さらに、スターリンは銀行強盗を含む様々な犯罪活動にも関わるようになります(この銀行強盗で得たお金は、ボリシェビキの活動資金として使われた)。
そのため、この時期(1902年から1913年にかけて)、スターリンは何度も逮捕され、結果、シベリアの刑務所に送られて亡命生活を余儀なくされたのです。
ちなみに、スターリンの私生活に目をやると、1906年、当時、仕立屋として働いていたエカテリーナ・スワニーゼ(愛称カト)と結婚し、息子のヤーコフ(数十年後に起こる第二次世界大戦中にドイツの捕虜となって獄死した)をもうけています。
しかし、ヤーコフを産んだ数か月後にエカテリーナはチフスにかかって命を落としてしまったため、1918年にスターリンは二人目の妻となるロシアの革命家の娘、ナジェージダ・アリルーエワ(愛称ナージャ)と結婚。
彼女との間に男の子と女の子の二人の子供をもうけましたが、ナジェジダは30代前半の頃、スターリンと口論の末に自殺してしまいます(公式には虫垂炎による死亡だと発表された)。
一方、スターリンには妻以外の女性との間に、数人の子供がいたと言われており、スターリンとナジェジダの口論の中には、当時の女性関係の話も含まれていたのかもしれません。
権力を掌握したスターリン
1912年、スターリンは当時スイスに亡命中であったレーニンから、ボリシェビキ党の中央委員に任命されます。
そして、1917年にロシア帝国内で起きた「ロシア革命」によってロシア帝国は崩壊。
1917年11月には、ボリシェビキがロシア全土で権力を掌握して1922年にはソビエト連邦が成立。
ボリシェビキの指導者であったレーニンが、初代ソ連最高指導者になりました。
一方のスターリンは、徐々に党内のヒエラルキーの上へと上り詰め、1922年に共産党中央委員会の書記長に就任。
自らの味方となる人物を政府の職に任命できるようになり、政治的な土台をより強固なものにしていったのです。
それから間もなく1924年にレーニンが亡くなると、スターリンはライバルであったレフ・トルツキーの裏をかいて後継者争いに勝利し、共産党並びにソ連の実質的な最高指導者となりました。
スターリン体制下のソ連:独裁者となり「大粛清」などの恐怖政治を行った
1920年代後半に名実ともにソ連の最高指導者になったスターリンは、いくつもの5か年計画を施行し、ロシアを農業社会から工業的な超大国に転身させるために尽力していきます。
彼が思い描いた発展のビジョンは、
- 中央政府によってコントロールされる経済と経済発展を目指す
- ソビエトの農業を強制的に集団化し、またその農場を政府が管理する
ことでした。
しかし、多くの農民はスターリンの強制的な政策に反対したため、処刑されたり強制収容所に送られ、また、強制的な集団化はソ連中を食糧不足に陥れ、何十万人もの人が飢餓で命を落としました。
さらにスターリンは、自分に反対する人を完全に消し去るために専制的な恐怖政治を展開。
秘密警察の力を拡大し、市民がお互いをスパイのように監視することを推奨した結果、何百万という数の人がシベリアの強制労働収容所に送られます。
そして1930年代後半になるとスターリンは、「大粛清(だいせいしゅく)」と呼ばれる、共産党や軍隊の敵となり得る人物を完全に追放するキャンペーン(大規模な政治弾圧)の数々を展開。
この大粛清の最盛期(1937年から1938年)だけで、以下のように非常に多くの人々が犠牲となりました。
- 134万4923人が即決裁判で有罪となる
- 68万1692人が死刑判決を受ける
- 63万4820人が強制収容所や刑務所に送られる
これに加えて、スターリンはソ連中でスターリン自身に対する個人崇拝の体制を築き上げます。
- ロシアの都市の多くはスターリンにちなんで改名された
- ロシアのツァリーツィン(現在のゴルゴグラード)という街はスターリングラードに改名された
- ソ連の教科書は革命におけるスターリンの貢献をより大きく誇張した
- 教科書はまたスターリンの私生活を神話化するように書き直された
- スターリンを題材にした絵画、音楽、文学作品が多く作られた
- ソ連の国歌の歌詞の中にもスターリンの名前が登場した
- スターリン政権はソ連のメディアをコントロールした
など、スターリンが行った独裁者としての振る舞いは数えるとキリがないほどで、スターリンが死亡するまで、ソ連ではおよそ2000万人の人が命を落としたのではないかという推定もあるぐらいです。
第二次世界大戦期のスターリンとスターリン体制下のソ連
第二次世界大戦開戦直前の1939年、スターリンとドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーは不可侵条約を結びます。
そしてソ連は、ポーランドとルーマニアの一部とバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)を併合。
さらにスターリンはフィンランドに対する攻撃も開始しました。
しかし、1941年にドイツが約束を破ってソ連に侵攻し、ソ連は深刻なダメージを受けます。
ちなみに、ドイツの侵攻以前にスターリンは、イギリスやアメリカ、自国の諜報部からドイツ侵攻の可能性について警告を受けていたが、これを無視し続けていたため、ソ連は全く何の対策も取っていなかった。
そこで、ドイツ軍がソ連の首都であるモスクワに近づくと、スターリンは首都を去ることなく、敵軍の利益になりそうな建物や物資を全て破壊する焦土作戦の決行を命じます。
そして1942年8月から1943年2月にかけて続いた「スターリングラード攻防戦」で、赤軍がドイツ軍を破ると戦況は変わり、有利になったソ連はドイツ軍をソ連から追いやることに成功したのです。
その後、第二次世界大戦が後半に近づいてくると、スターリンはテヘラン会談(1943年)やヤルタ会談(1945年)といった主要な同盟国の会談に参加するようになります。
鉄の意志を持ち、人を操ることに長けているスターリンは、連合国(アメリカ、イギリス、中国、オーストラリアなど)側の忠実な同盟国であり続けながら、「戦後にソ連帝国の影響力を拡大する」という野望を胸に会談に参加し続けたのです。
スターリンの晩年
スターリンの性格は年をとっても和らぐことはなく、恐怖政治、粛清、処刑、強制収容所への流刑、秘密警察による摘発は、大戦後においてもソ連内で続きます。
また、彼の政治に対する反対意見や、西洋の影響を受けたものはすべて抑圧されました。
さらにスターリンは、多くの東欧諸国で共産党政権を打ち立て、1949年には原爆実験を成功させ、ここにソ連の核兵器時代の幕が開くと同時に、冷戦が世界規模で本格化していきます。
例えば1950年、スターリンは北朝鮮の当時の指導者「金日成(キム・イルソン)」に対し、アメリカの管理下にある韓国に侵攻する許可を与え、朝鮮戦争のきっかけを作りました。
一方、スターリンはこの頃すでに70歳を超えており、被害妄想が強くなっていったと言われています。
そして、1953年の3月1日のこと、徹夜の夕食後に寝室で寝ていたスターリンは突然脳卒中の発作を起こして倒れ、昏睡状態が続き、一時は意識を回復したものの、3月5日に74歳の生涯を閉じることとなったのです。
ちなみにその後、防腐処理を施されたスターリンの遺体は、モスクワの赤の広場にある霊廟にレーニンと並んで保管されることになりました。
しかし1961年、スターリンの後継者であるニキータ・フルシチョフは、非スターリン化(スターリン時代の内外政策、政治体制、国際共産主義運動方針の転換や軌道修正の動き)の一環として遺体を霊廟から移し、クレムリン近くの墓地に埋葬されることとなりました。
ヨシフ・スターリンについてのあまり知られていない5つのこと
ヨシフ・スターリンと、スターリン体制下のソ連について、歴史の流れを追いながら見てきましたが、ここからはスターリンについての理解をさらに深めるために、あまり知られていない5つの話を紹介していきます。
残虐性を表すとして有名な言葉をスターリンは発言していなかった
ナチス政権下のドイツの親衛隊将校「アドルフ・アイヒマン」は、ナチスドイツ政権下で起こしたホロコーストなどの犯罪によって公判に臨んでいる時、
一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない
という言葉を残し、また、ヨシフ・スターリンも同じ言葉を発言したという話があります。
この言葉が「鋼鉄の人」として恐怖政治を敷くスターリンの性格を表していると言われていたのです。
しかし、実際にスターリンがこの言葉を発した証拠はなく、あくまでも彼の独裁者としてのイメージと上記の言葉が表す恐怖感がマッチした結果、一人歩きしてしまった話だということが近年分かっています。
「インデックスカード」という名前でトロツキーに呼ばれたことがある
スターリンが名実共に最高指導者となる前、スターリンのライバルであったトロツキーは、共産党へ大して貢献していなかったスターリンを、「インデックスカード」として呼んでいたことがあるそう。
(トロツキー:出典:wikipedia)
インデックスカード(Index card)とは「情報カード」のことで、継続的な蓄積を目的として情報を記録する、一定寸法に裁断された厚手の紙片のこと。
これは当時、それまで共産党内で主要な政治的についていなかったスターリンが、突然「書記長」に就任したことから、実際に情報を記録したりする「書記」を嘲笑する、ちょっとした皮肉がこもったあだ名でした。
鋼鉄の人は息子が捕虜になった時でさえも身代金を払うことを拒絶した
第二次世界大戦中、最初の妻エカテリーナとの間に生まれた息子ヤーコフを、ナチスドイツが捕虜として捕まえた時、ナチス側のヒトラーは身代金と引き換えにヤーコフを解放する提案を用意をしていました。
しかし、「鋼鉄の人(スターリン)」という姓を持つスターリンは、数多の身代金提案を拒絶。
ヒトラーによってどんな拷問が息子に降りかかろうとも、父親であるヨシフ・スターリンは態度を変えませんでした。
その結果、ヤーコフは刑務所内で獄中死することになってしまったのです・・・。
スターリンは「半人・半猿」の生き物を作ろうとしていた
通常の人間よりも痛みから早く回復し、食事の質などを心配することのない「新しい人間」を作り、ソ連の赤軍を世界最強の軍隊にしたいという欲望から、スターリンは当時最高峰の科学者達に、ある命令を下しました。
それは、人間と猿の混血であるある「猿人」を作り出すこと。
スターリンの考えによると、この「半人・半猿」の生き物は、
- 未発達な脳により容易にコントロールすることが出来る
- よって、従順で素晴らしい力と強さを持った最高の戦士になる
であろうといったものだったのです。
しかし、スターリンにとっては不幸にも、一方、人類にとっては恐らく幸運なことに、この任務に当たっていた主任研究員であるイリヤ・イワノフは失敗をしてしまいました。
ちなみにイワノフは、典型的なスターリンの流儀で逮捕され、カザフスタンに追放されています。
疑い深い性格は脳内の病気だったのか?
大粛清などを通して何百万の人を犠牲にしてきたスターリンは、とにかく疑い深い性格の持ち主であったことが知られており、それがまた、独裁者として恐怖のスターリン体制を敷いた大きな理由。
実は、この疑い深いスターリンの性格というのは、もしかしたら「脳内の病気」だった可能性が挙げられています。
その病気とは、脳内に起こった「アテローム性動脈硬化症(動脈の中が詰まってくる動脈硬化)」で、スターリンの死後明らかになりました。
この脳内に起こった症状が、「常軌を逸した疑い深さや恐怖の引き金になっていたのではないか」と言われることがあるのです。
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ヨシフ・スターリンとスターリン体制下のソ連|大粛清などを行った独裁者と恐怖政治についてのまとめ
ソ連の第2代最高指導者として君臨し、恐怖政治を敷いた独裁者「ヨシフ・スターリン」について見てきました。
近現代史やロシアの歴史を見ていく上では、絶対に見落とせない重要な人物です。