古代エジプトの女王達|女性ファラオ並びに実権を握った女達の名前

古代エジプトの女王達を9人紹介していきます。女性ファラオとなった者、そうでなくても実質的な権力を握った者など、抑えておきたい9つの名前を確認していきましょう。

紀元前3000年頃に興った第1王朝から始まり、紀元前30年に滅びたプトレマイオス朝まで続いた古代エジプトにおいて、大抵の権力は男性に握られていました。

しかし、王の妻となった女性は古代エジプトを共同統治する権利を得たり、また、状況によっては単独で国を支配したりと、女性であっても実質的な絶対権力を握ることが稀にあったのです。

例えば、「クレオパトラ」として有名な「クレオパトラ7世」は、そのような古代エジプト女王の一人でしょう。

この記事では、生涯の中で古代エジプトにおける王「ファラオ」となったり、実質的な最高権力者として古代エジプトを統治することがあった女王達7人と、それ以外にも覚えておきたい2人の女王達を紹介していきます。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

古代エジプトを支配した女王たち

古代エジプトにおいて、ファラオの妻、つまり女王達は、言うまでもなく権力を持ち、また高く評価されていました。

しかし、その中には、背景や理由は異なるものの、単独で古代エジプトを統治するまでに至った女王も存在し、中には基本男性ばかりであったファラオの称号を得た者さえいたのです。

まずは、生涯の中で実質的に古代エジプトを単独で統治し、古代エジプトにおいて非常に重要な役割を果たした女王達を見ていきましょう。

古代エジプトの女王① メルネイト

メルネイト、またはメリトネイトと呼ばれる女王は、エジプト第1王朝期に生きた女性で、エジプト第1王朝4代目のファラオであるジェトの妃でした。

(出典:wikipedia

夫のジェトが死んだ後、息子のデンはエジプトを統治するには幼すぎたため、メルネイト女王は紀元前2950頃に実質的な統治者となったのです。

そしてこれは、古代エジプトにおいて史上初の女性の統治者誕生を意味するものでした。

一方で、メルネイトが「古代エジプトを統治した際の称号はなんだったのか?」また、「そもそも単独で統治した期間があったのか?」については意見が分かれています。

まず、彼女の名前は第1王朝の他のファラオたちのように印章に残っておらず、歴代の王のリストに何の記述もないことから、彼女が古代エジプトを統治していた際の称号については「ファラオ」ではなく、あくまでもデンの「摂政」とされていたのではないかという説があるのです。

また、メルネイトが古代エジプトを統治した期間についても、単独ではなく「単に息子と共同統治をしていただけ」と考える人もいます。

古代エジプトの女王② ニトクリス

ニトクリスは、エジプト古王国時代(紀元前2686年頃〜紀元前2185年頃)の終わりから、エジプト第一中間期(紀元前2180年頃〜紀元前2040年頃)の始まり頃に生きたとされる古代エジプトの女王。

エジプト古王国時代最後の王朝である第6王朝最後のファラオと言われ、適切な男性ファラオが存在しない期間(男性ファラオ空位の期間)を埋めるような形で、古代エジプトの統治者の役割を担ったとされています。

ただし、このニトクリスについては、詳しいことがほとんど知られておらず、また、あくまでも後世に書かれた歴史書に名前が出てくるだけであるため、実際に存在したのかどうかについては良く分かっていません。

古代エジプトの女王③ セベクネフェル

セベクはラー(太陽神)の美しさ」という意味を持つセベクネフェルは、エジプト第12王朝の8代目ファラオで、紀元前1806~紀元前1802年(または紀元前1785年〜紀元前1782年)までの間、古代エジプトを統治した女性。

(出典:wikipedia

夫であり兄妹でもあるアメンエムハト4世の死後に政権を握って、ファラオとしてのエジプト女王として頂点に君臨したのです。

女王はヘラクレオポリス・マグナ(ナイル川西岸にあった古代都市)に数々の建造物を建て、父であるアメンエムハト3世の葬祭殿の建設も引き継いだことで知られます。

また、彼女は女性の称号に加えて男性の名前も使用していたことが知られており、これについては多くの学者が「女性の統治者に対する批判が多かったため、それを鎮めるために男性の称号も使用したのではないか」と考えています。

ちなみに、セベクネフェル女王に関しては、鼻が損傷した像や頭のない胸像(損傷あり)など、当時の姿が分かるいくつかの像が発見されています。

古代エジプトの女王④ ハトシェプスト

ハトシェプストは、古代エジプト女王の中で最も長く支配者として君臨した女王です。

紀元前1500年~紀元前1458年まで生き、その人生の中で22年間、紀元前1479年から紀元前1458年まで古代エジプトを統治していました

夫のトトメス2世は上の3人の兄が幼くして亡くなったという理由で王に上り詰めましたが、自身もハトシェプストとは異なる、妾(めかけ)の女性との間に息子トトメス3世を残したまま他界。

息子トトメス3世を王にするように遺言を残しましたが、トトメス3世はまだ幼かったため、ハトシェプストが共同統治王(ファラオ)として、およそ22年間も実質的な絶対権力を握ることとなったのです。

ちなみに、ハトシェプストに関しては野心家だったという説も残っています。

それによると、女性でありながらもハトシェプストは、以前からエジプトを統治するファラオになりたいと願っていたとされ、そのために多大な時間と労力を費やしたらしく、

  • 自分の血統を利用して父であるトトメス1世と共同統治をするストーリーを企てる
  • トトメス1世が亡くなった後、父は生前に自分こそが後継者であると宣言したと主張した
  • 古代エジプト人の心に、自分以外に王にふさわしい人間はいないという考えをさらに浸透させるため、男性の衣装を身につけてあごひげを付けた

などの話が存在するのです。

また、人々に自分のことを女王ではなく、「」や「国王陛下」と呼ばせることを徹底したとさえ言われます。

ただし、彼女が絶対的な権力を握ってファラオとして君臨した期間、古代エジプトは平和的に統治されたと言われるなど、統治者としては優れていたようです。

古代エジプトの女王⑤ ネフェルティティ

ネフェルティティ(美しい者が訪れたの意味)はエジプト女王の中で最も美しい女性の一人、古代エジプトの3人の美女の一人と言われる人物で、紀元前1360年頃に生まれ、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであるアクエンアテンの正妃となった女性でした。

彼女と夫のアクエンアテンは古代エジプトの宗教改革で知られ、唯一神であるアテン(太陽神)信仰において重要な役割を果たしました。

また、この二人が権力の座についていた時期は、古代エジプトが最も豊かになった時期であると言われることさえあります。

そしてネフェルティティは、夫のアクエンアテンが亡くなった後に短期間だけ、ネフェルネフェルアテンという名前で古代エジプトの実質的な統治者となっていたのではないかという説があるのです。

ただし彼女に関しては不明な点も多く、「なぜ突然に彼女の記録が歴史の碑文から消失したのか?」や「死因は何だったのか?」などの疑問が残り、「宗教的な理由で殺害されて歴史から抹消されたのではないか」という憶測も生まれています。

一方で、ネフェルティティは息子を産むことが期待されていましたが、生涯の中で6人の娘を出産したことで知られています。

古代エジプトの女王⑥ タウセルト

タウセルトは古代エジプト第19王朝の6代目ファラオであったセティ2世の妻だった女性。

(出典:wikipedia

夫であるセティ2世が亡くなると、サプタハと言う成人にも足していない男の子がファラオとして即位しました(サプタハの父は、4代目ファラオのメルエンプタハやセティ2世など、いくつかの説が存在じ、血縁関係が分かっていない)

しかしサプタハは、セティ2世が生前に指名した後継者でもなければまだまだ若く、さらに病弱で、エジプトを効率的に統治するには物足りなかったのです。

そこで、未だに故セティ2世の妻として「偉大なる王の妻」という称号を持つタウセルトが、サプタハの後見人として古代エジプトを共同統治する立場となります。

さらに、この舞台裏にはバイという名の宰相がおり、当時のエジプトで大きな権力を握っていました。

そして病弱なサプタハが王位を継承してから6年後に亡くなった時、タウセルト女王は単独のエジプト統治者として2年間君臨し、その後内乱により彼女の統治時代は終わりを迎えます。

古代エジプトの女王⑦ クレオパトラ

古代エジプトの歴史の中で、クレオパトラと呼ばれる女王は何人か存在しますが、最も有名なのは、真実かどうかは別として「絶世の美女」として有名なクレオパトラ7世フィロパトルでしょう。

クレオパトラ7世は紀元前69年に、古代エジプトプトレマイオス朝のファラオとして君臨したプトレマイオス12世の娘の一人として生まれました。

そして父が亡くなると、父が残した遺言通り、クレオパトラはまだ子供だった弟のプトレマイオス13世と結婚。

プレマイオス13世がファラオとなり、クレオパトラも共同統治者となりました。

その後、プトレマイオス13世を支持していた人々によって一旦はエジプトから追放されてしまいますが、古代ローマの支配者であったユリウス・カエサルの協力を得た結果、プトレマイオス13世(本人は溺死)とその陣営を破ってエジプトへ凱旋。

別の弟であるプトレマイオス14世と結婚して、共同統治を再開しましたが、実質的にはクレオパトラがエジプトにおける絶対的な権力を握ることとなったのです。

またクレオパトラは、カエサルと恋人関係にあり、二人あの間にはカエサリオンという息子が生まれ、プトレマイオス14世の死後以降は、カエサリオンを共同統治者として置きながら古代エジプトの実質的な権力を握り続けていきました。

このように、エジプトとローマ、そして複数の人物との間で多くのドラマ、紛争、ロマンスを繰り返した後、クレオパトラは39歳で自殺。

その後のエジプトは古代ローマに編入されることとなったため、クレオパトラは古代エジプト最後の女王であり実質的な統治者であったと言えるでしょう。

その他有名なエジプト女王2人

ネフェルタリ

ネフェルタリは、エジプト新王国第19王朝のファラオでラムセス大王としても知られる「ラムセス2世」の正妃だった女性。

偉大なラムセス2世にとっては非常に相応しい妻であったらしく、高度な教育を受けたことによって、ラムセス2世の治世では外交において多大な力を発揮したと言われます。

そのため、ファラオもネフェルタリ女王の重要さを過小評価することは出来なかったようで、ラムセス2世は、ネフェルタリ女王のために王妃の谷に豪華な墓を建て、また、彼女を称える「彼女が為に太陽が輝く」といったような言葉も数々残されています。

しかも、ラムセス2世はアブ・シンベルに彼女と女神ハトホルを祭った神殿を建てていますが、その神殿にはファラオの像と同じ高さでネフェルタリが描かれており、これは古代エジプトでは通常ありえないことでした。

アンケセナーメン

アンケセナーメンは「少年王」として知られる、古代エジプト第18王朝のファラオ「ツタンカーメン」の妻として最もよく知られている女性。

(出典:wikipedia

ツタンカーメンがエジプトのファラオに上り詰めたとき、2人は非常に若かったものの、彼らはお互いに深く愛し合い、親密な関係であったと考えられています。

しかし、アンケセナーメン女王の物語は、決して明るいものばかりではありませんでした。

2人の娘は死産(彼女はツタンカーメンの異母兄妹だったので遺伝性疾患と考えられる)してしまい、ツタンカーメンと結婚する前は父であるアクエンアテンの妻として、ツタンカーメンが早死にした後は、(おそらく強制的に)祖父であるアイと結婚させられたのです。

このような生涯を送った結果、アンケセナーメンは度々、「悲劇の女王」として語り継がれてきました。

合わせて読みたい世界雑学記事

古代エジプトの女王達|女性ファラオ並びに実権を握った女達の名前のまとめ

古代エジプトに生きた女王達の中でも、実質的な統治者となった7人と、それ以外に知っておきたい有名な2人の女王を紹介してきました。

古代エジプトと呼ばれる時代はおよそ3000年にも及び長く、そこには非常に多くの人物が登場しますが、その中には男性をも凌ぐほど強大な影響力を持った女性達が存在したのです。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

error:Content is protected !!