エジプトの有名人【古代エジプトの有名人+歴史的有名人】

エジプトは歴史の中で、科学や文学、哲学など様々な分野にも貢献してきました。

例えば、近代技術が導入されるはるか以前からピラミッドのような複雑で幾何学的に正確な建築物を作り、その多くは現在も残っているなど、時代をはるかに先取りしていたのです。

この記事では、そんなエジプトの歴史の中でも特に抑えておきたい10人の有名人を、古代エジプトの有名人を中心にして紹介していきたいと思います。

エジプトを有名にしたエジプトの歴史上の有名人を確認していきましょう。

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古代エジプトの有名人1:モーセ(モーゼ)

モーセ(モーゼ)は、紀元前16世紀または紀元前13世紀頃にゴシェン(当時ヘブライ人が居住した下エジプトの一地方で聖書の創世記の中のヨセフ物語に登場する地名)で生まれたエジプトの宗教指導者。

また、古代イスラエルの立法者であり民族指導者としても知られています。

当時、エジプトでは奴隷制度が一般的で、雇い主は奴隷を搾取し、動物のように扱っていたといわれます。

そんな中、モーセはヘブライ人の奴隷の家庭に生まれましたが、赤ちゃんの頃にナイル川で拾われて王族の養子になりました。

そして、王子の息子として扱われ、良い教育を受けましたが、次第に自身の出生の真実を知り、誰にも見つからない南の島に逃げます。

その後、モーセは「エジプトで今も搾取されている奴隷を助けよ」という神のお告げを受け、それによってヘブライ人の奴隷達をエジプトから連れ出して助ける「出エジプト」のためにエジプトに戻ります。

そして、ヘブライ人達を助け出して彼らのコミュニティを作り、ユダヤ教はもとより、キリスト教やイスラム教など、アブラハムの宗教と呼ばれる宗教において最重要な預言者の一人になったのです。

また、モーセと言えば、モーセの十戒でも知られています。

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古代エジプトの有名人2:ハトシェプスト

紀元前1500年頃に生まれたハトシェプストは、古代エジプトの女王の中で最も長く支配者として君臨した女王。

夫のトトメス2世が、妾(めかけ)から生まれた息子トトメス3世を後継者に指名した後、トトメス3世が独り立ちするまで、その人生の中で22年間、紀元前1479年から紀元前1458年まで古代エジプトをトトメス3世と一緒に「共治王」という形で統治していました。

ハトシェプストはファラオとして成功を収め、人々から愛されていたといわれます。

ハトシェプストの在位中、エジプトは平和で繁栄していて多くの建物や神殿が建てられ、経済的にも安定していたのです。

ちなみに、「出エジプト記」でモーセをナイル川で拾って育てた義母は、このハトシェプストではないかといった話もあります。

古代エジプトの有名人3:アメンホテプ4世

アメンホテプ4世は紀元前1362年頃に生まれて紀元前1333年頃に亡くなったエジプトのファラオ。

アメンホテプ4世は、多神教だった当時のエジプトを変え、太陽神アテンのみを崇拝する一神教を導入したことで有名です。

アメンホテプ4世は人々は太陽を崇拝するべきだと考えていたとされ、その様子は当時の芸術作品からも見てとれます。

人々がアテン神を崇拝できるように多くの神殿を建築したり、アテン神を信仰させるために多くの人に改名させたりもしました。

アメンホテプ4世は父親と共に8年間エジプトを統治し、父親の死後はすぐにファラオに即位。その後は、統治に必要な全ての技能を持っていたことで、エジプトの宗教に変革を起こし続けました。

しかし、アメンホテプ4世が亡くなると、彼が民衆に課したものの多くは放棄され、建てられた記念碑は破壊され、人々は名前を元に戻し、アテン以前に崇拝していた神々を引き続き信じていくこととなったのです。

アメンホテプ4世は、人民に共感せずに自分の考えを強要するファラオであったとも言えるでしょう。

古代エジプトの有名人4:ネフェルティティ

「美しい者が訪れた」の意味を持つ名前が付けられたネフェルティティは、古代エジプトの3人の美女の一人と言われる人物。

紀元前1360年頃に生まれ、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであるアクエンアテンの正妃となった女性でした。

ネフェルティティが王家の血統であるかどうかは定かではありませんが、古代エジプト第18王朝の14代ファラオ「アイ」とその妻の間の娘であると考えられています。

また、有名なファラオ「ツタンカーメン」から見て義母に当たる存在でした。

ネフェルティティはファラオであるアメンホテプ4世の正妃となり、6人の子供を産みました。

当時の絵画には、ネフェルティティがアメンホテプ4世と共に太陽神を崇拝し、子供達にもそうするよう教えている場面が描かれています。

古代エジプトの有名人5:ツタンカーメン

トゥト・アンク・アメン、一般的な呼称でツタンカーメンは、紀元前1342年頃から紀元前1324年頃まで生きた古代エジプト第18王朝のファラオ。

しかし、幼くしてファラオに即位したために実権を宰相のアイに握られ、さらに、わずか16〜19歳で命を落としてしまったことに加え、異母兄弟であるアンケセナーメンと結婚し、両者はとても良好な夫婦関係にあったものの、ツタンカーメンの死後アンケセナーメンはアイの妻とされたことなどから「悲劇の少年王」として有名です。

エジプトが大きな変化を迎えていた時代に短期間だけ国の統治にあたった人物だとも言えるでしょう。

在位中、ツタンカーメンはエジプトをアテン神信仰からアメン神信仰に変え、アメン神の神殿を建て、自分の名前をアメン神の生きた似姿という意味のツタンカーメン(正確にはトゥト=アンク=アメン)に変えたことでも知られます。

実権を握られていたため、ツタンカーメンは統治には大きな影響を与えることがなかなか出来なかったものの、優れた助言者であり哲学者であったことが知られており、彼の墓から発見された花は、彼が多くの人々から感謝されていたことを示唆していると考えられています。

一方で、古代エジプトでは血縁者同士の婚姻が繰り返されていたため、ツタンカーメンは多くの遺伝的な疾患に苦しめられていた可能性が示唆れれており、ツタンカーメンの墓からはアンケセナーメンとの間に生まれた2体の早産児のミイラも見つかっていますが、ツタンカーメンの障害が原因で2人の間には健康な子供が生まれなかったと考えられています。

他にもツタンカーメンは副葬品などがほとんど完全な形で発見された王として、さらに、ツタンカーメンを取り巻く謎などによって、現在、おそらく古代エジプトの有名人の中でも最も親しまれている存在です。

↓ツタンカーメンの謎については以下参照↓

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古代エジプトの有名人6:アンケセナーメン

紀元前1348年頃に生まれ、26歳で亡くなったアンケセナーメンは、有名な古代エジプトのファラオ「ツタンカーメン」の異母兄弟であり妻でもあった女性。

ファラオにとって兄弟や従兄弟など血縁者と結婚することは一般的で、そうすることで王家の血統が汚されず、君主がいつも王家の人間であり続けると考えられていました。

アンケーセナムンは非常に若くして亡くなり、彼女について書かれたものはほとんどありませんが、自身の母親が亡くなった後に自身の父親と結婚していたり、他のファラオと結婚していた可能性が示唆れていて、自らの父親との間には子供をもうけたという噂も残っています。

ツタンカーメンとは非常に良い夫婦だったと言われる一方で、早くしてツタンカーメンを亡くしてしまったことや、ツタンカーメン以外の人間との関係などによって、小説や漫画などのフィクションでは、運命に翻弄される「悲劇の王妃」として描かれることが多くあります。

古代エジプトの有名人7:ラムセス2世

紀元前1303年頃に誕生したラムセス2世は、エジプト新王国第19王朝のファラオであり、当時最も偉大で有名なファラオでした。

14歳で父親から皇太子と指名され、父親の死後は60年にわたってエジプトを統治。

統治期間中にはエジプト文明を促進しようと多くの神殿や記念碑を建て、90歳で亡くなるまで多くの戦争を行ってエジプト新王国の勢力圏を伸ばし、また、世界初の平和条約であるエジプト・ヒッタイト平和条約を締結するなどして、当時のエジプトの繁栄に大きく貢献しました。

古代エジプトの有名人8:クレオパトラ7世

紀元前69年に生まれたとされるクレオパトラ7世は、父親の死後に女王の座に就いたプロれマイオス朝の女性ファラオ。

様々な絵画や彫刻、そして物語で描かれているとおり、クレオパトラ7世はその美貌と君主としての力量で有名でした。

クレオパトラ7世は多くの分野に精通しているだけでなく複数の言語に堪能であり、在位中はエジプトの統治に時間を費やしました。

また、エジプトの経済の成長を助ける政策も打ち出し、経済の面でも優秀だったといわれ、在位中には銀や銅、その他の金属からクレオパトラ7世の顔が彫られた硬貨が作られました。

他にも、古代ローマの指導者であるガイウス・ユリウス・カエサル及びマルクス・アントニウスとの情事は、クレオパトラを語る上で有名な話として残っています。

ちなみに、クレオパトラ7世が自殺した後、クレオパトラ7世の子供「カエサリオン」はクレオパトラ7世の父親の2番目の妻によって育てられ、クレオパトラ7世の兄弟とカエサリオンは後にエジプトを支配しましたが、カエサリオンは古代エジプトまたプトレマイオス朝最後の王となってしまいました。

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古代エジプトの有名人9:イブン・ハルドゥーン

1332年にエジプトで生まれた歴史家のイブン・ハルドゥーンは、イスラーム世界最大の学者であり、現代社会学にも影響を与えた人物の一人と考えられています。

裕福な家庭で生まれたイブン・ハルドゥーンは、多くの優秀な師に学びましたが、自ら学習することも好みました。

イブン・ハルドゥーンは裕福でしたが子供の頃に多くの困難に直面し、10代前半で両親を亡くしています。

その後、成人したイブン・ハルドゥーンは、その知性と教養で有名になり、後に政治の道に進みました。

政治の複雑さは、イブン・ハルドゥーンが持つ人間観に影響を与えたようです。

一方で、当時の社会において間違っていると思ったことに反対した結果、イブン・ハルドゥーンは投獄されてしまいました。

釈放後は学者になり、現在も読まれている本を多く執筆。彼はその著作で非常に高く評価され、当時の最も偉大な哲学者だと考えられています。

古代エジプトの有名人10:モーシェ・ベン=マイモーン

1135年にスペインで生まれたモーシェ・ベン=マイモーンは、とても有名なユダヤ人哲学者であると同時に、医者であり学者で、ルネサンスの人文主義の先駆者と評価される歴史上の有名人です。

一方で、生まれこそスペインであったものの、1166年にカイロ南部のフスタートに移住し、1173年にはエジプトを支配するアイユーブ朝の君主サラディンの妃に仕えていた女性と結婚しました。

1185年には宮廷の医者に指名されます。

このような経緯に加えてモーシェ・ベン=マイモーンは、自分の考えや哲学を多くの本に書き残し、さらに、その指導者としての資質だけでなく、人に対する思いやりが評価され、当時エジプトに住んでいたユダヤ教徒の指導者に選ばれることとなりました。

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