女マフィア・女ギャングを10名紹介していきます。裏社会で名前を馳せたある意味で女ボス的な女性達の名前と、彼女達の簡単な経歴を見ていきましょう。
マフィアやギャングに対するイメージとしては、悪名高い男性達というのが一般的だと思います。
しかし、マフィアやギャングの歴史の中では女性も一部活躍してきました。
男性ギャングに引けを取らないほど名乗りをあげる、悪名高い女性たちが存在してきたのです。
この記事では、そんな女マフィアやギャングとして知られる女性達の中から、10名をピックアップして紹介していこうと思います。
女マフィア・女ギャング① オパール“マットトラック”・ロング
テキサスに生まれたとされるオパール“マットトラック”・ロングは、その体の大きさから「マックトラック」の愛称で呼ばれていた女ギャング。
ロングはアメリカの強盗として悪名高い「ラッセル・クラーク」の妻として、ジョン・ディリンジャーのギャング集団に加わりました。
そして、生まれながらの世話人であったロングは、バニース・クラークと呼ばれるのを好み、隠れ家を掃除し、ロングが家族と考えていたギャング集団のために料理を作ることに喜びを見出していました。
しかし、1934年1月25日、夫のラッセル・クラークがアリゾナ州ツーソンで逮捕されると状況は悪化。
ロングは夫を逮捕した警察を襲撃したのです。
一方でロングは、クラークの訴訟を上訴する資金をディリンジャーに懇願しましたが、結果的に、ディリンジャーの一味から外されてしまいます。
そしてその夏、ロングもまた逮捕されました。
その後、ロングは仲間について警察に垂れ込むことはせず、1934年11月に仮釈放され、シカゴで余生を送ったとされます。
女マフィア・女ギャング② エブリン“ビリー”・フレシェット
アメリカのギャング「ジョン・ディリンジャー」の最愛のガールフレンドとして悪名高いエブリン“ビリー”・フレシェットは、ギャングの愛人としては異例の経歴の持ち主です。
フランス人とネイティブアメリカンのメノミニ族のルーツを持つフレシェットは、カトリック系の小学校に通い、その後に高校を卒業。
当時の社会情勢では教育があっても仕事を得るのは困難だったため、フレシェットはシカゴへと向かいます。
そして、最初の夫が郵便局強盗の罪で投獄された後、フレシェットはディリンジャーと出会い、共にアメリカ全土へ犯罪し放題の旅に出ました。
この旅の中では度々銃撃戦に巻き込まれることがありましたが、フレシェットはディリンジャーと一緒に無事に生還したのです。
その後、フレシェットは一味である逃亡者を匿ったことで有罪判決を受け、2年間に渡って収監され、この間にディリンジャーが死去してしまいました。
また、1936年に釈放されるとフレシェット自身は犯罪者としての過去を新たなキャリアに転換させていきました。
ディリンジャー一味と共に「犯罪は儲からない」と称した講演を行うツアーの旅に出たのです。
そして、釈放されてから33年後、フレシェットは癌で死去しました。
女マフィア・女ギャング③ ヘレン・ギリス
ヘレン・バブジニャクは16歳の時、“ベビーフェイス”・ネルソンとして知られるようになったアメリカのギャング「レスター・ギリス」と結婚するという、運命の一大決心をし、自らも女ギャングとして知られることになっていきました。
20歳の頃にヘレンは2児の母となり、夫レスター・ギリスの悪事のおかげで、パブリックエネミーズ(社会の敵)の「銃殺すべき人物」リストに名前が挙がっていたほどです。
ただし、実際には彼女自身はギャングというより共謀者とみられていました。
1934年11月27日、イリノイ州で起こった「バリントンの銃撃戦」に居合わせていたヘレンは、警察の車を見つけたネルソンと、仲間のギャング「ジョン・ポール・チェイス」と共に、警察の車を追走して銃撃するという事件に巻き込まれます。
この事件はその後に銃撃戦へと発展し、途中で夫のネルソンは2人の警官と共に死亡してしまいました。
そして、ヘレン・ギリスは瀕死の夫をかくまった罪で、パブリックエネミーのリストに名を残すことになってしまったのです。
その後、ヘレンは感謝祭の日に降伏。
ネルソンの醜い最期に憤慨したヘレンはチェイスに不利な証言をし、それが影響してチェイスは終身刑になり、当の本人であるヘレンはそれから50年以上の後に死去しました。
女マフィア・女ギャング④ “マ”・バーカー
犯罪者の「ゴッドマザー」というあだ名を持つ「マ・バーカー」、「アリゾナ・ドニ―・バーカー」または「ケイト・バーカー」は、強盗団の母親として知られるマフィア史上で有名な女性。
ケイト・バーカーは19歳の時にジョージ・パーカーと結婚し、2人は4人の息子、ハーマン、ロイド、アーサー、フレッドを授かりました。
しかし、バーカー一家は普通の家族ではありませんでした。強盗を働く犯罪一家だったのです。
(出典:wikipedia)
一家の強奪行為は殺人へとエスカレートし、ほどなくしてアメリカ中西部のマスコミや一般大衆の注目を集めました。
しかし、1927年、ハーマンが逮捕されまいと自殺を図ったのを契機に、バーカー一家の運命は転機を迎えました。
それからまもなくして他の3人の息子たちは収監され、ケイト・バーカーはその後、数年間に渡って極貧生活を強いられたのです。
しかし、1931年にフレッドが釈放されるとケイトも合流し、新たな犯罪の数々に拍車がかかり、それが自らや息子の死をもたらす結果となります。
1935年1月8日、フロリダ州レイクウィアーの隠れ家にFBIが突入した結果、ケイトとフレッドは射殺されてしまったのです。
ケイト・バーカーは、「マフィア史上で最も横暴、危険かつ機略に優れた犯罪のブレーンの一人」と評されることさえあります。
女マフィア・女ギャング⑤ パール・エリオット
パール・エリオットは悪名高いマダムでした。
ジョン・ディリンジャーやハリー・ピアポントと繋がりがあることで知られ、彼女がインディアナ州コーコモーに所有していた売春宿は、1925年の銀行強盗の後、ピアポント一味の隠れ家にもなっていました。
その後、エリオットはディリンジャーの「財務担当」としての役割を担い、その役割のために1933年、パブリックエネミーズリストにエリオットの名前も加えられました。
一方で、パール・エリオットは不法営業や危険な取引の数々に加担してきたにもかかわらず、銃撃戦や刑務所で最期を迎えたわけではありません。
彼女は1935年8月10日、病によってこの世を去ったのです。癌が原因であったと推測され、享年47歳でした。
女マフィア・女ギャング⑥ ヴァージニア・ヒル
フラミンゴ、そして「ギャングの愛人のなかの女王」として知られるヴァージニア・ヒルは、ブルックリンのギャングでラスベガス成立にも関わった「ベンジャミン・シーゲル」の愛人として悪名高い人物。
貧しい家庭の出身であり、17歳になるまで自分の靴を持っていなかったと周囲に漏らしていたヴァージニア・ヒルは、アラバマ州に生まれ、ジョージア州で育ちで、富と名声を求めてシカゴへ移住してアル・カポネの会計係としての仕事を見つけました。
その後、ヒルは女優になる夢を追うためロサンゼルスに移り、そこでシーゲルと出会い、すぐにシーゲルの愛人かつ運び屋になりました。
シーゲルは後に、ラスベガスのフラミンゴホテルをヒルにちなんで名づけています。
しかし、このホテルビジネスは完全な失敗に終わり、シーゲルのキャリア、そしてシーゲルの生涯にも終わりをもたらしました。
シーゲルは1947年6月20日、ハリウッドにあるヒルの自宅で銃殺されたのです。
シーゲルが殺害された際、ヒルは不在でしたが、ヒルが加担していた暗黒街での取引のため、時がたつにつれ、ヒルが証言台に立つ回数が多くなっていきました。
そして1961年、オーストリアの雪の吹きだまりのなかでヒルが死んでいるのが発見されました。
死因については睡眠薬の大量摂取が原因とされていますが、なかには、殺害されたという推測も存在します。
女マフィア・女ギャング⑦ アーリン・ブリックマン
1933年、ニューヨークのイーストハーレムのユダヤ人一家に生まれたアーリン・ブリックマンは、上でも紹介したヴァージニア・ヒルに心酔して育ちました。
そして、アーリン自身は、賭博経営、麻薬ディーラー、高利貸などに手を染め、ギャング達のために働きました。
しかし、アーリンがユダヤ系であったことが、シチリア系ギャングが支配する犯罪シンジケート内でのランク昇級の妨げとなります。
それでも、金と権力はアーリンを喜ばせるには十分でした。
それから数年後、ある高利貸がアーリンの娘を脅迫したことで不安に駆られたアーリンは、FBIヘ接触し、ギャングに関する情報提供者に転じます。
この結果、その後およそ10年の間、アーリンはギャング達に対してスパイ行為を行い、また後にはギャング達にとって不利になる証言をし、ギャングとして知られたアンソニー・スカルパティとその一味は恐喝の罪で有罪判決を受けることとなりました。
女マフィア・女ギャング⑧ ボニー・パーカー
最も有名なアメリカの女ギャングの一人といえば、アイコン的な犯罪者カップル「ボニーとクライド」の片割れのボニー・パーカー。
このカップルは1931年から1934年にかけて、「金持から金品を盗んで貧乏人に分け与える」として、アウトローが犯罪によって有名になった「パブリックエネミーの時代」に悪名を馳せた銀行強盗犯でした。
(出典:wikipedia)
ボニー・パーカーはテキサス州ローウェナに生まれ、賢く、そして遠慮のない性格という評判でした。
パーカーは1930年、クライド・バロウと出会い、パーカーは結婚していましたが、2人はすぐに意気投合しました。
そして、たくさんの殺人に関与し、多くの強盗に手を染めたのです。
しかし、2人は1934年、警察との壮絶な銃撃戦の末に絶命。
ボニーは23歳、クライドは25歳でした。
彼女達を犯罪へ推し進めていったのには、当時の世界恐慌や禁酒法といった社会環境や、それによって犯罪に手に染めるものが英雄視される時代的潮流があったと言えるでしょう。
女マフィア・女ギャング⑨ ステファニー・セント・クレア
マンハッタンでは「クウィーニー」と呼ばれることが多かったステファニー・セント・クレアは一方で、地元であったニューヨークのハーレムにおいて、マダム・セント・クレアとして知られていました。
フランス人とアフリカ人のルーツをもつ移民のセント・クレアは渡米して10年後、違法な宝くじやギャンブルが行われる賭博場を設立していき、ハーレムの人々を保護することに必死でした。
(出典:wikipedia)
また、腐敗した警察組織に不利な証言をし、警官を辞めさせただけでなく、禁酒法時代の末期、新たな収入源を求めてダウンタウンの犯罪組織がアップタウンへ侵入しようとしてきたのを阻止したことでも知られます。
ステファニーの主な用心棒、エルズワース“バンピー”・ジョンソンの支援を受け、ラッキー・ルチアーノと手を組み、彼女はダッチ・シュルツの一味をハーレムから追い出したのです。
このような働きから、確かに違法な事業に手を染めたステファニー・セント・クレアは女マフィアや女ギャングとして名前が挙がりますが、一方では彼女なりに、当時の社会情勢下でどうにかして地元のために尽力した女性とも言えるのです。
女マフィア・女ギャング⑩ プリティ・パンツ・バンディット
二丁拳銃を持ち、茶色の瞳に魅力的なブルネットの女性として描かれ、「マリー・ベイカー」としても知られるこのアウトローは、1933年、パンツギャングとして一連の強盗事件を起こし、世間の注目を浴びました。
強盗に押入った店の店員に対しておこなった一風変わった要求にちなんで、この「あだ名」が付けられたことで有名です。
店内の客が全員外に出ると、この女強盗は武器を取り出し、店員に「パンツを脱げ!」と命令したのです。
そして躊躇した店員に対して、ベイカーは嘲笑いながら無理やりパンツを脱がしました。
その後、肉屋に強盗に押入った時、ベイカーは化粧をチェックしている隙に人質に逃げられてしまい、ほどなくして逮捕されました。
後にマリー・ベイカーは、実名「ローズ・ドゥランテ夫人」であることが明らかになり、世間から忘れ去られるまで結果的に3年間に渡って服役したのです。
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紹介してきたように、裏社会ではこれまで、男性だけでなく数々の女性達が暗躍してきました。