ミケランジェロ・ブオロナーティの生涯と人生について見ていきましょう。ミケランジェロは万能の人と呼ばれ、天才的な能力で偉大な作品を数々残した芸術家です。
14世紀から16世紀頃まで続いたルネサンス期には、多くの芸術家達が誕生し、中には芸術史上最も偉大だとされる人物も複数登場しました。
その一人がミケランジェロ・ブオロナーティ。
有名なダビデ像や最後の審判などの作品で知られ、芸術に詳しくない人でも彼の名前を聞いたことがある人は多いはずです。
そんなミケランジェロの生涯と人生はどのようなものだったのか?
この記事では、ミケランジェロの生涯と人生について見ていこうと思います。
ただし、まずはミケランジェロ・ブオロナーティについて理解するために、彼に関する簡単な概要から確認し、また、後半では彼に関するいくつかの豆知識も紹介していきます。
ミケランジェロ・ブオナローティとは?
ミケランジェロ・ブオロナーティ(1475〜1564年)、全名ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニは、イタリアのルネサンス時代の中でも最盛期にあたる「盛期ルネサンス(1450〜1527年)」に活躍した、フィレンツェ出身の画家、彫刻家、建築家、そして詩人。
同時期に活躍した有名なレオナルド・ダ・ヴィンチと同様に、「万能の人」や「万能の天才」と呼ばれる歴史的偉人で、実際、同時代に生きた人々もミケランジェロの才能を高く評価し、ローマ法王やカトリック教会の高官を代表とした裕福で権力のある人物達は、こぞって彼に作品制作を依頼しました。
また、人類史上最高の美術家または芸術家であると考える人もいるほどで、西洋芸術に非常に大きな影響を与えています。
ミケランジェロの作品は、身体的なリアリズム、心理的な洞察、そして比類なき迫力に満ち溢れているのが特徴で、
- 『ピエタ』
- 『ダヴィデ像』
- 『システィーナ礼拝堂天井画』
- 『最後の審判』
に代表される彼の作品は丁重に管理され、500年以上経った今でも、世界中の人々に愛されており、美術や芸術を知らない人の間にさえ名前が知られているのです。
ミケランジェロの生涯と人生をダイジェストで追ってみよう!
ミケランジェロの生い立ち
ミケランジェロ・ブオナローティ(本名ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ)は、1475年3月6日、フィレンツェ共和国のカプレーゼ(現在のイタリアのトスカーナ州アレッツォ近郊にあたる)にて生まれました。
しかし当時、彼の父親ルドヴィーコはフィレンツェ政府に仕えていたため、生後間もなく(数ヶ月後)には、フィレンツェ共和国の首都であったフィレンツェに移住。
このため、ミケランジェロは生涯にわたってフィレンツェを故郷と呼ぶようになりました。
フィレンツェで芸術に興味を示すようになったミケランジェロ
イタリアルネサンス期のフィレンツェは非常に生き生きとした芸術の中心地で、ミケランジェロが生まれ持った才能を生かし活躍するには最適な場所でした。
ミケランジェロは6歳の時に母親を亡くします。
その後、彼の父はミケランジェロへ学問を学ばせようとしますが、芸術の都フィレンツェによって元々持っていた芸術的感性を刺激された結果、ミケランジェロは芸術への嗜好を強めていきます。
ちなみに彼の父親は最初、ミケランジェロの画家志望を快く思っていなかったようです。
画家としての修行を開始
13歳の時、ミケランジェロは有名な壁画化であったドメニコ・ギルランダイオの工房に弟子入りしました。
そのわずか1年後、ミケランジェロの才能はフィレンツェの裕福なパトロンであったロレンツォ・デ・メディチの目に止まります。
(ロレンツォ・デ・メディチの像)
学問や芸術に造詣が深く、フィレンツェで最も頭の良い人や才能のある芸術家を囲むことで知られていたロレンツォは、ミケランジェロの才能を見出し、彼を自分の広大な屋敷に住まわせることにしたのです。
ミケランジェロは、ロレンツォの屋敷に出入りする学者や作家に触発され、哲学や政治に関して非常に多くのことを学びました。
実際、彼の作品にはこの時期に学んだ事柄が強く反映されていると言います。
さらに、ロレンツォが誇る古代ローマ時代の彫刻の管理人であった彫刻家ベルトルド・ディ・ジョヴァンニの下で学び、彫刻の技術も磨きました。
ちなみに、ミケランジェロは様々な分野において才能を発揮しましたが、彼自身は常に自分のことを彫刻家であると考えていたとも言われます。
ミケランジェロの代表的な作品の誕生
彫刻「ピエタ」
その後、ロレンツォの死を含めた環境の変化やいくつかの転機が訪れた結果、1496年にミケランジェロはローマへ移住。
1497年、フランスのシャルル8世によってローマに派遣されていたジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラ枢機卿(教皇庁のフランス大使)から、自身のキャリアを大きく前進させることとなる彫刻の制作を依頼されました。
枢機卿は自分の墓を飾るために、聖母マリアが息子イエス・キリストの遺体を抱いて悲嘆にくれる場面を表現した「ピエタ」の像を作って欲しいと、当時23歳だったミケランジェロに頼んだのです。
完成までに2年近くかかったこの彫像は、1つの大理石の塊から作られた高さ175cmの繊細な像で、ミケランジェロの最も有名な作品の一つとなりました。
完成から500年以上経った現在も、この「ピエタ」を一目見ようと、世界中から何十万人という人が、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂を訪れています。
彫刻「ダヴィデ像」
1501年、ミケランジェロはフィレンツェに戻ります。
ここで彼は、有名なドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)を飾る巨大な大理石の「ダヴィデ像」の制作を命じられます。
ミケランジェロは旧約聖書の英雄であるダヴィデを、力強く精神性に溢れたヒーローとして描くことを決意。
実物大よりもずっと大きな全長5.17mの像を制作しました。
多くの学者によって「完璧な」彫像であると評価されるこの「ダヴィデ像」は現在、フィレンツェのアカデミア美術館に収蔵されており、フィレンツェを代表する芸術作品となっています。
絵画『システィーナ礼拝堂天井画』
そして1505年、ローマ法王ユリウス2世はミケランジェロをローマへ呼び戻し、自身の霊廟の制作を依頼。
この霊廟は40以上の実物大の彫像を含む巨大なもので、ミケランジェロは即座に制作に取り掛かりました。
しかし、それ以外にも後継の教皇達から多くの製作命令を受けていたミケランジェロは、ユリウス2世の作品製作を何度も中断することになり、完成までには40年もかかった上、彼自身が満足する出来栄えにはならなかったと言います。
そんな中、1508年にユリウス2世は別のプロジェクトをミケランジェロに命じます。
これは、法王の選出が行われる、バチカンで最も神聖な建物システィーナ礼拝堂の天井に、十二使途の肖像を描くというものでした。
霊廟の制作よりは安い案件でしたが、非常に野心的なものであることに変わりはありませんでした。
ミケランジェロはこの天井画の制作に4年近い歳月を費やします。
さらに、十二使徒を描く代わりに彼は、天井と壁の境界に7人の預言者と5人の巫女の姿を描き、中央のスペースには創世記の場面を配置。
これが後に、ミケランジェロを代表する「絵画作品」の「システィーナ礼拝堂天井画」となったのです。
ちなみに、この天井画の中でも最も有名なのはアダムの創造の場面。
神とアダムがそれぞれ腕を伸ばして指先を交わす表現には、どこか感情を掻き立てるものがあります。
建築
典型的なルネサンス人であったミケランジェロは、亡くなる直前まで絵画と彫刻の制作を続けました。
しかし、1513年に教皇ユリウス2世が死去して後継にレオ10世が選出されて以降、そして、ミケランジェロ自身は年を重ねていくにつれ、彼に依頼される仕事は建築のプロジェクトが多くなっていきます。
例えば1518年、未完成のままだったメディチ家の教会サン・ロレンツォ大聖堂のファサード(正面部分)の再建と彫刻による装飾が、ミケランジェロに一任されます。
さらに、1520年から1527年にかけてミケランジェロは、フィレンツェのメディチ家礼拝堂内部の設計に携わりました。
ミケランジェロの壁や窓、コーニス(軒蛇腹)のデザインは独特なもので、古典的なスタイルの建物に、あっと驚くような目新しさを加えたものでした。
他にもまた、ミケランジェロは晩年、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂のドーム(半球形をした屋根)の設計を担当しました(ドーム自体が完成したのはミケランジェロの死後)。
ミケランジェロの晩年
詩を書くことが多くなったミケランジェロ
1530年以降、ミケランジェロは詩を書くようになりました。
約300編の詩が現存しており、その多くは新プラトン主義の思想を反映したものです。
ミケランジェロが若い頃、フィレンツェ・メディチ家の周囲に集まった人文主義者達は、プラトン・アカデミーと呼ばれるサークルを形成しており、そこへミケランジェロも参加していたのです。
ここでは、
愛とエクスタシー(プラトン的な愛/プラトニック・ラブ)によって、人間の魂は全能の神の領域に近づくことが出来る
という考えが共有されていたこともあり、ミケランジェロが残した詩に影響を与えたようです。
最後の審判の誕生
一方で、ミケランジェロはローマ教皇クレメンス7世に、システィーナ礼拝堂祭壇の祭壇画を制作するように命じられたことから、再びフィレンツェを離れてローマへ向かいます。
そして、この作品は1534年から1541年までかけてようやく完成し、ここに、ミケランジェロにとっての大作であり最後の代表作となった「最後の審判」が誕生したのです。
「万能の人」ミケランジェロの死
ミケランジェロは最後の審判以降も、(1546年から)ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の改築と設計を一任されたりと、仕事から完全に離れることはほとんどありませんでした。
そして、1564年に短い闘病生活の末に88歳で亡くなりました。88歳という年齢は、当時の平均寿命をはるかに超えています。
また、ミケランジェロは1540年代に自分の墓を飾るピエタの彫刻を作り始めましたが、未完のままでした。
このピエタ像は現在、ミケランジェロが埋葬されているサンタ・クローチェ聖堂から遠くないフィレンツェのドゥオーモ博物館に収められています。
他にも知っておきたいミケランジェロについての興味深い豆知識
実は同性愛指向も持っていた?
ミケランジェロは晩年に数多くの詩を残したわけですが、これらの中には、ミケランジェロが複数の若い男性に対して強い愛着を抱いていたことが綴られています。
その1人は、まだ若い貴族で男性のトンマーゾ・デイ・カヴァリエーリでした。
歴史家の間では、
- これらの関係が同性愛的なものであったのか?
- 未婚で子どものいないミケランジェロが切望した父と子のようなものであったのか?
など、今でも議論が絶えません。
放置された大理石から「ダビデ」を作った
ルネサンス期を代表する「ダビデ像」は、1501年、ミケランジェロが26歳の若さで制作に取り掛かり、1504年に完成しているわけですが、実は、それまでに何人かの彫刻家によって制作を放棄されていました。
製作は1464年にアゴスティーノ・ディ・ドゥッチオによって始められ、その後は1475年にアントニオ・ロッセリーノによって続けられましたが、詳しい理由は明らかになっていないものの、制作は断念されていたのです。
一説によると、
二人とも大理石に問題が多すぎるために巨大な彫像の安定性が保てないとして製作を破棄した
と言われます。
そのため、この巨大な石塊は25年間も放置されました。
製作を始めたミケランジェロは、それまでの二人の彫刻家が傷つけた大理石の石塊を、素材の性質、そして模様までしっかりと調べて確認し、その後の4年間にわたる緻密な作業によって、ダビデ像を完成させたのです。
それまでの彫刻家が完成できなかった作品を仕上げたことで、ミケランジェロの彫刻家としての評価は確固たるものとなりました。
「最後の審判」に自画像を描き加えている?
ミケランジェロの「最後の審判」は、キリストの再臨を描いた作品で、聖書の一場面ではありますが、全体にミケランジェロ自身の想像が色濃く映し出されています。
そして、十二使徒の一人である聖バルトロメオが持つ生皮に描かれているのは、ミケランジェロの自画像だとされています。
「ピエタ」はミケランジェロがサインをした唯一の作品と言われる
ミケランジェロと同時代人の伝記作者ジョルジョ・ヴァザーリによれば、ミケランジェロは「ピエタ」を設置して間もない頃に、
あれは二流彫刻家のクリストフォロ・ソラーリが創ったものだ
という噂が広まっていると耳にしました。
そこでミケランジェロは「ピエタ」の聖母マリアの胸にかかっているサシェへ、
- MICHAELA[N]GELUS BONAROTUS FLORENTIN[US] FACIEBA[T]
- (フィレンツェ人ミケランジェロ・ブオナローティ作)
と彫りつけたのです。
これによって、「ピエタ」はミケランジェロがサインをした唯一の作品となったと言います。
というのも、自分のプライドのせいで作品にサインしたことを悔やみ、ミケランジェロはその後の作品に二度とサインを入れることはなかったからです。
当時は最も裕福な芸術家だったと言われる
ミケランジェロはかなり裕福だったとされてきましたが、かなりどころではなく、実はとてつもなく裕福だったとさえ言われます。
最大のパトロンだったローマ法王ユリウス二世から多額の支払いを受け、さらに不動産に広く投資して成功していたのが、大きな理由のようです。
そのため、その時代で最も裕福な芸術家となり、他の天才達、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチ、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、ラファエロ・サンティなどと比べてもはるかに金持ちだったと考えられています。
しかし、ミケランジェロ自身はお金に無関心で、弟子のアスカニオ・コンディヴィが残したミケランジェロの伝記によると、
自分は金持ちなのかもしれないが、つねに質素な暮らしを送っている
と語っていたそうです。
ミケランジェロは美術品の詐欺行為から最初の成功を掴んだ
アスカニオ・コンディヴィが記したミケランジェロの伝記によると、ミケランジェロが最初の成功を掴んだのは、美術品に関する詐欺行為がきっかけとなったようです。
ローマへ行く以前、ミケランジェロは「キューピッドの彫刻」作成と、その作品を「もっと古い時代の発掘品のように見えるように加工しろ」と命じられます。
これは、そのように加工することで、ローマで高値で売れると考えられたためでした。
その結果、ミケランジェロは作品を酸性の土で覆って古い時代のもののように見せかけました。
それを仲買人を通して、枢機卿ラファエーレ・リアーリオへ売却。
リアーリオは後になって詐欺の噂を聞きつけ、支払った料金を取り戻しましたが、同時にミケランジェロの技術に目を留め、ミケランジェロをローマに招いて面会することにしたのです。
若いミケランジェロはそれから数年ローマに留まり、「ピエタ」の製作を委託されることになり、これによって彼の芸術家としての人生は大きく発展していきました。
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ミケランジェロ・ブオナローティの生涯と人生|万能の人と呼ばれる稀代の芸術家のまとめ
盛期ルネサンスに活躍した偉大な芸術家「ミケランジェロ」の生涯と人生について見てきました。
ミケランジェロは、その才能を存分に発揮出来る時代に生まれたことで、当時の権力者達に気に入られ、それによって数々の歴史的な作品を残してきたことが分かります。