サッダーム・フセイン元イラク大統領について見ていきましょう。独裁政権誕生から死刑で命を落とすまでの生涯、そしてあまり表には出ない5つの話までを紹介していきます。
人間の歴史の中では今まで幾人もの独裁者が現れてきました。
そして、独裁者の一人として20年以上にも渡ってイラクを私物化し、多くの人々の命を奪ってきた人物にサッダーム・フセイン元イラク大統領の名前を挙げることが出来ます。
このサッダーム・フセインはどのような人物だったのか?
彼の生涯をダイジェストで見ていき、また、あまり語られることはない5つの話を紹介しながら、サッダーム・フセインについて理解を深めていきたいと思います。
サッダーム・フセイン(サダム・フセイン)とは?
サッダーム・フセイン、またはサダム・フセイン(Ṣaddam Ḥussein)は、全名がサッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー(Saddam Hussein Abd al-Majid al-Tikriti)となる、イラク共和国の元政治家。
同国では首相、革命指導評議会議長、バアス党地域指導部書記長、イラク軍最高司令官などを務め、また1979年7月16日に大統領に就任してから2003年4月9日まで、独裁的者として君臨していた人物。
大統領期間中は、多額の費用をかけて近隣諸国との戦争を開始したり、少数民族に対する殺戮などを繰り返し、非常に残忍な独裁政権を敷いていました。
しかし、2003年のイラク戦争でアメリカ率いる有志連合に破れて逮捕された結果、2006年12月30日に処刑されて生涯を閉じました。
とにかく、歴史に悪名を残すイラクの元大統領であり独裁者として知られています。
イラクの元大統領サッダーム・フセインの生涯
ここからは、イラク元大統領サッダーム・フセインについてさらに詳しく知るために、その生涯をダイジェストで紹介していこうと思います。
サッダーム・フセインの人生初期
出生から法律を学んだ大学時代
1937年4月28日、サッダーム・フセインはイラク北部の街ティクリート近郊の村に、農家の子として生まれました。
この辺りはイラクでも最貧困地域の一つで、サッダームの父親はサッダームが誕生する前に他界しており、サッダームは幼くしてバクダッドに住む叔父の下で暮らすことになります。
そして、その叔父の指導の下、サッダーム・フセインは国家主義色の強いバグダッドの中等学校で学び、その後はロースクールへ入学して3年間法律を学びますが、1957年20歳の時に中退します。
バアス党へ入党
1957年、サッダームはバアス党に入党します。
バアス党はアラブ諸国で活動する汎アラブ主義(中東における国家を超えたアラブ民族の連帯をめざす思想運動)の政党でした。
(出典:wikipedia)
1959年には、当時のイラク首相アブドルカリーム・カーシムを、バアス党員が暗殺しようとした暗殺未遂事件に関与し、また一連の活動の中で負傷したサッダームはシリアへ逃亡、次いでエジプトに逃亡します。
エジプトに亡命している間、サッダームはカイロ大学法学部で再び法学を学び(1962年~1963年)、1963年にバアス党がイラクの政権を握ってからは、バクダッドのロースクールにて法学の勉強を続けます。
しかし、バアス党政権は同年に政権を追われ、サッダームは数年間をイラクの獄中で過ごすことになりながらも脱獄。
地下活動を続けながら、バアス党の指導者的立場の一人になります。
そして1968年、バアス党がイラクの政権を奪回することになったクーデターにサッダームも関与し、その結果、大統領兼首相及び革命指導評議会議長のアフマド・ハサン・アル=バクルと共に、副大統領としてイラクにおける政治的権力を握り、1972年にはイラクの石油産業の国営化を主導しました。
サッダーム・フセインの大統領時代
サッダーム・フセインは1979年7月17日、バクルが大統領を辞任すると大統領に就任し、続いて革命指導評議会議長および首相、また、その他要職に就任しました。
これにより、独裁政権としての下地が完成し、以降20年以上も続くサッダームによるイラクの独裁が始まっていきます。
例えばフセインは、広範囲に及ぶ秘密警察組織を活用し、政権に対するイラク国内の反対勢力を弾圧したり、また、イラク国民にはサッダーム個人を崇拝するように強制し始めます。
また、非常に強力な権力を得た結果、フセインは、
- エジプトに取って代わりイラクがアラブ世界の指導的地位を手にいれる
- ペルシャ湾地域における主導権を確立する
という二つの目標または願望を持ち始めることになったのです。
イラン・イラク戦争の勃発
その結果、1980年9月、サッダームはイランの油田地域に侵攻を開始し、ここに「イラン・イラク戦争」が始まります。
しかしこの戦争はイラクにとってとてつもない消耗戦となり、軍事行為は行き詰まっていきました。
戦争を続けるに当たって多額の費用がかかり、またイラクの石油輸出もストップしたことから、サッダームは野心的な計画を縮小化せざるを得なくなったのです。
そしてイラン・イラク戦争は、1988年に両国が停戦協議を行って停戦を迎えることになります。
ちなみに、この停戦合意に至るまで、イラクは多額の対外債務を抱えこんでいましたが、それにも関わらず、サッダームはイラクの軍備増強を続けていました。
クウェート侵攻
1990年8月、イラク軍は隣接するクウェートへの侵攻を開始します。
サッダーム・フセインは、クウェートの豊富な石油収入を手に入れて、イラン・イラク戦争によって疲弊したイラク経済のテコ入れを目論んでいたようです。
しかし、イラクのクウェート侵攻後、瞬く間に世界中でイラクに対する経済制裁が発動。
また、サウジアラビアにはアメリカ主導の大規模部隊が派遣され、国連ではイラクのクウェート侵攻が非難の的となり、イラクの軍事行動を終結させるための武力行使が承認されます。
それにも関わらず、サッダームは国際社会からのクウェート撤退要求を無視したのです。
湾岸戦争の勃発と終結
結果、イラクの軍事行動を終わらせるための多国籍軍によるイラクへの空爆(湾岸戦争)が1991年1月17日に始まり、6週間後にイラク軍がクウェートから撤退させられて戦争は終結しました。
イスラムシーア派住民とクルド人に対する抑圧
イラク軍の大敗により、イラク国内のシーア派住民およびクルド人による反政府勢力が力を増すこととなります。
しかし、サッダーム・フセインの独裁政権は、そうした反乱を化学兵器などの残虐な方法で抑圧し、何千もの人々がイラク北部の国境沿いにある難民キャンプへと逃れる事態となりました。
殺害された人は数千人以上にも及び、フセイン政権により投獄された人々も加えるとその数は数え切れないほどだと言われます。
イラクに対する経済制裁の発動
この残虐行為を終わらせるため、また、国連との停戦合意の一貫としてイラクは化学兵器、生物兵器、核兵器の製造および保有は禁止されていたのにも関わらずイラクが順守しようとしないため、イラクには数多くの経済制裁が課されます。
そして、それによりイラク経済は深刻な打撃を受けました。
また、サッダーム・フセインは度重なる国連武器査察団への協力を拒み続け、それがアメリカ軍およびイギリス軍による1998年末の4日間に及ぶ空爆(砂漠の狐作戦)の原因となりました。
一方のフセイン政権は、国連による経済制裁の下で凶悪性を増したため、それに対して米英両国はともに、イラク国内の反フセイン抵抗勢力を支援すると表明。
しかしフセイン大統領は国連査察団のイラク入国を禁止し続け、イラクでの支配体制をより強固なものにしていく一方で、演説などでは挑戦的な反米姿勢を崩そうとしなかったのです。
9・11事件から繋がるイラク戦争
2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件後、アメリカ政府はフセイン大統領が生物化学兵器を有するテロリストグループをアメリカに送り込んだ可能性があるとして、イラクの武装解除をさらに進めようとします。
そしてフセイン大統領は、2002年11月に国連査察団の受け入れをついに承認しましたが、全面的な協力を怠ったため、アメリカおよびイギリスが不満を募らせて外交に終止符を打つと宣言しました。
2003年3月17日、当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュはフセイン大統領に対し、大統領職を辞任し、48時間以内にイラク国外へ退去しなければ全面攻撃を開始すると要求。
ブッシュ大統領はまた、フセイン大統領がイラクから出国しても、新政府の安定化と大量破壊兵器の探索目的で、アメリカ軍の投入が必要となるであろうことを示唆。
これに対してフセイン大統領がイラクからの国外退去を拒否すると、アメリカ軍および有志連合軍は3月20日、イラクに対する攻撃を開始し、ここにイラク戦争が始まります。
サッダーム・フセインの逮捕
イラク戦争の火蓋を切る一斉射撃の中、アメリカ軍によって、フセイン大統領が部下らと面会する現場として考えられていた施設への空爆が行われました。
この攻撃ではサッダーム・フセイン大統領の殺害は失敗しましたが、引き続きフセイン大統領に的を絞った激しい攻撃が続けられます。
一方のフセイン大統領はイラク国民に対し、米英軍による攻撃を止めさせるために命を捨てるように頑なに呼びかけ続けます。
しかしその呼びかけも虚しく、米英軍による攻撃で抵抗組織は瞬く間に崩壊。2003年4月9日にはアメリカ軍によってバクダッドが陥落。
フセイン大統領は逃亡し、当初はアメリカ軍による捕獲作戦から逃れることができましたが、まずフセイン大統領の2人の息子であるウダイとクサイが追い詰められ、7月22日にモスルにて殺害されます。
そして、息子たちの殺害から数ヶ月後、サッダーム・フセイン大統領も同年12月13日には逮捕されます。
かつてはこざっぱりとして清潔だった指導者が、髪も乱れ、薄汚れた身なりとなった状態で、ティクリート近郊の農家近くの小さな地下穴に隠れていたところを引きずり出されました。
この時、フセイン大統領は武装していましたが、発砲することなくアメリカ軍兵士に降伏し、ここにサッダーム・フセインが逮捕されたのです。
サッダーム・フセインの裁判と処刑
2005年10月、前イラク政権幹部を合議制(執行機関を複数の人によって構成させる制度)で審理するイラク高等法廷に、サッダーム・フセイン元大統領が送られます。
この中でフセイン元大統領とその共同被告人らは1982年、シーア派住民が多数を占める街アッ・ドゥジャイルにて、148人の民間人を殺害した罪に問われました。
そして、2006年11月に、148人の民間人を殺害した「人道に対する罪」によって絞首刑による死刑判決が言い渡されることとなります。
その後、12月26日は開かれた第2審も第1審を支持し、弁護側の上訴を棄却してからわずか4日後、2006年12月30日にサッダーム・フセインの死刑が執行され、ここに生涯を閉じたのです。
サッダーム・フセインに関する5つの話
見てきたように、サッダーム・フセインはイラクの独裁者として君臨した人物です。
ここからは、そんな独裁者サッダーム・フセインに関して、表にはあまり出てこないけど興味深い5つの話を紹介していこうと思います。
デトロイト市の鍵を受け取ったことがある
サッダーム・フセインがイラクで権力を掌握した年、彼はデトロイトのヤッソ・ヤコブ牧師から祝辞を受けとり、フセインは牧師とカルデア(注)のキリスト教徒の集会所(教会)に25万ドルを送りました。
そして、ヤッソはサッダームに会いにバグダッドへ招かれ、滞在期間中にフセインへ、デトロイト市長のコールマン・ヤングからのお礼として、デトロイト市の鍵をプレゼントします。
これにフセインは喜び、同教会へ追加で20万ドルを送ったのです。
(注釈)ここで言う「カルデア」とは「カルデア教会」のことで、イラクのバグダードに総大司教座を置き、主にイラク北部とアメリカのデトロイトに信者を有するキリスト教カトリック系の宗派のこと。
イラクの生活の質を向上させたとしてユネスコ賞が贈られた
フセインは1968年から1979年にかけてバアス党の副議長を務めていましたが、その間、フセインは全国に向けて識字率向上のプログラムを立ち上げたり、イラクの諸都市で読書会をいくつも立ち上げるなどします。
また、道路や学校、病院を建設し、公的な医療制度も作り上げました。
その結果、UNESCO(国際連合教育科学文化機関)はフセインの功績を讃え、賞を贈ることを決定したことがあったのです。
文明全体を一掃しようとした
1980から1988年のイラン・イラク戦争中に、サッダーム・フセインは、イラクのマーシュ・アラブ(チグリス・ユーフラテス川流域の湿原にクラス人々)がイラン人と共謀していると非難。
(出典:ALJAZEERA)
マーシュ・アラブ達を一掃するために、かつて聖書の「エデンの園」と考えられていた伝説的な湿原から水を抜くことを決め、2003年のアメリカ侵攻の際までに、9000平方kmあった湿原は760平方kmまで減少してしまいました。
古代のメソピタミア文明から、形を変えながらも続いてきたとも考えられる人々の生活全てが破壊されそうになったのです。
しかしフセインが逮捕された後、湿原への水をせき止めていたダムが破壊され、アラブ・マーシュの生活を取り戻す運動が興り、古代からの住民達が戻ってきた結果、この湿原は2016年、ユネスコによって世界遺産に認定されました。
ジョージ・W・ブッシュ大統領に生放送での討論を申し込んだ
2003年に切羽詰まったサッダーム・フセインは、アメリカによるイラクへの侵略を阻止しようと、なんと当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュに生放送での討論を申し込みます。
CBS Newsによる3時間のインタビューの中で、フセインはアメリカ大統領と衛星を通しての討論を要望したのです。
ホワイトハウスはこの要求は重大なものでないと判断して無視しましたが、当時、選択肢が既になくなっていたフセインにとって、これはかなり本気の要求だったのではないでしょうか。
ちなみに、相当必死だったフセインは、
「これは、米国とイラク国民、そして世界の人々に対する私の最大の敬意を持って提案しているものだ。戦争は冗談ごとではない。」
などというメッセージを残しています。
ベストセラーのロマンス小説を執筆した?
2000年、イラクにて「Zabibah and the King」という本が匿名で出版されました。
この本は中世イラクの強大な権力を持った王と、平民のザビバ(Zabibah)のラブストーリーを、サッダーム・フセインの出生地であるティクリートを舞台にして描かれたもの。
ラブストーリーとは言うものの、実際はフセイン(王)とザビバ(イラク国民)の関係を表現している寓話(比喩的な話)だと言われ、その著者はなんとサッダーム・フセイン自身だったのではないかと考えられています。
また、CIAもこの本はフセインが少なくとも監督していたのではと考えているほどです。
ちなみに、イラクの新聞がフセインが著者ではないかと報じたところ、この本は瞬く間にベストセラーとなってミュージカルとして壮大に上演されることもありました。
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サッダーム・フセイン元イラク大統領|独裁政権誕生から死刑までと5つの話のまとめ
イラクの独裁者として長年に渡って国民を苦しめてきた、サッダーム・フセイン元大統領について見てきました。
現在のイラクを理解するためにも、そして、中東地域を理解するためにも、サッダーム・フセインについて知ることは重要なことの一つです。