ボリス・エリツィン|プーチンロシアの前大統領で酔っ払いとしても有名

ボリス・エリツィンはソ連崩壊から現在のロシアに以降した初期の時期において、プーチン以前にロシア大統領を務めた人で、酔っ払いとしても知られる人物です。

1991年にソビエト連邦が崩壊した後に生まれた新国家ロシアは、まるで大人の世界に丸投げされた赤ん坊のような状態でした。

他の東ヨーロッパ諸国と比べてもその差は明らかで、70年近く秘密主義的な政治と共産主義経済を貫いてきたロシアは、政治的にも経済的にも、新しい社会体制に進んでいく準備が整っていなかったのです。

そんな状況下で、当時のロシアを主導したのがボリス・エリツィン。

ウラジーミル・プーチンの前にロシア大統領を務めた人で、また酔っ払いとしても有名です。

そのボリス・エリツィンを理解するために、歴史的な流れを追いながら、エリティンがロシア大統領として台頭した理由から行った改革、それによって引き起こされた社会不安などを見ていきたいと思います。

また、最後には、酔っ払いエリツィンを物語る3つのエピソードも紹介していきます。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

ボリス・エリツィンとは?

ボリス・エリツィン(1931年2月1日〜2007年4月23日)は、本名ボリス・ニコラヴィチ・エリツィン(Boris Nikolayevich Yeltsin)という、ソビエト連邦(ソ連)時代からの政治家で、現在のロシア(ロシア連邦)が出来てからは、初代大統領(任期:1991〜1999)を務めたことで知られる人。

ソ連末期の1991年に、ソ連の構成国の一つであったロシア共和国の大統領に就任し、同年12月にソ連が崩壊した後、ロシア共和国がロシア連邦に生まれ変わると同時に、引き続いてロシア連邦の大統領として同国を1999年12月31日まで主導しました。

ソ連時代末期に民主化を主導するなど一定の評価を得ているものの、ロシア連邦初期の混乱を立て直せなかったことに対して批判されることもあります。

また、ロシアを含めた旧ソビエト圏の国では政治家としての手腕より、「大の飲酒家」または「酔っ払い」として知られている人でもあります。

歴史から見るボリス・エリツィンの台頭と新しいロシア

エリツィンについて理解するには、エリツィンがロシア連邦の大統領に就任するに至った「ソビエト連邦の歴史」から始めていく必要があります。

ここでは、ソビエトの歴史から始めて、エリツィンが大統領として台頭した背景までを見ていきましょう。

ソビエト連邦の始まりから強国として力をつけるまで

ソビエト連邦の始まりは1920年代初頭、ウラジーミル・レーニンとボリシェビキ勢力が、ロシア全体においてその影響力を固めた時にさかのぼります。

そこから何十年にもわたって、レーニンの後継者達ヨシフ・スターリンからレオニード・ブレジネフまで)が資本主義者らを隔離・追放し、すべての工業、農業、そして生産全体を政府の管理下で集団化していくといった共産主義的改革を繰り返し行っていきました。

さらにソビエト連邦は、東欧諸国に対しても影響力を拡大し、勢力圏内の国家が共産主義に従うよう強制します。

その結果ソビエト連邦は、世界一の強国アメリカと並ぶほど強力な軍産複合体を作り上げ、さらにその優れた技術力を見せつけるかのように、世界初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げにも成功しました。

ソビエト連邦の崩壊

しかし20世紀後半になると、ソビエト連邦の経済は徐々に停滞していきます。

中央政府の管理下に置かれた共産主義経済によって非効率化が進み、またお堅い階層主義的な政治体制のせいで、危機的な状況に対応することが十分にできなかったのです。

1985年、新しく最高指導者となったミハイル・ゴルバチョフが経済の開放化を図る「ペレストロイカ」と、政治の自由化を進める「グラスノスチ」と呼ばれる2つの政策を打ち出しました。

これらの政策は元々、ソビエト連邦を救うために実行されたものでしたが、言論の自由化が進んだために連邦内と東欧諸国の両方において共産主義体制に対する反対の声が強まり、結果的にソビエト連邦の崩壊を加速させてしまいます。

1989年から1990年代前半にかけて東欧諸国は国民の抗議の声に反応するように、共産主義体制を終わらせ自由選挙を行うようになりました。

ほとんどの東欧諸国がソ連の勢力圏から離れ、さらに連邦内の共和国も独立を宣言する状態となり、事態に対処できなくなったゴルバチョフは、1991年12月にソビエト連邦の解体とロシアにおける共産主義体制の終了を発表しました。

ボリス・エリツィンの台頭

ソビエト連邦崩壊後、ロシア政治の主導権はすぐに、ロシア人の間で人気を誇っていた政治家のボリス・エリツィンに引き継がれました。

エリツィンが旧ソビエト連邦でキャリアを積んだ政治家である(ボリス・エリツィンは1961年に共産党に入党、1980年にはゴルバチョフの右腕になるほど高いランクに就いていた)ことを考えると、ちょっと不思議に感じるかもしれません。

しかし、エリツィンはソビエトの政治家の中でも屈指の改革者でした。

実際、ゴルバチョフが「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」を進めていたとき、エリツィンは改革の進展の遅さに苛立ちを感じ、1990年に共産党を脱退しているほどです。

その結果、急進改革派のリーダー的存在となり、翌年の1991年6月にロシア共和国(ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国:ソ連を構成する共和国の一つで現在のロシア連邦の前身)で始めて民主的な選挙が行われた際、エリツィンは同共和国の大統領に選出されます。

民主化に反対する共産主義のクーデターに立ち向かってヒーローになる

1991年の8月、8月クーデターという急進派の共産主義者によるクーデターが起こります。

これは改革を実行しようとする政府に対して、ソ連の厳格な共産主義体制の復活とゴルバチョフの退任を要求したクーデターでした。

この時、エリツィンはロシアの政治機関の建物を包囲して抗議する人々に交じり、戦車の上に登ってゴルバチョフの解放を懇願したのです。

結局、クーデターは国民は軍部の支持を得られなかったために終了。

その後は、クーデターが起こっても信念を曲げずにゴルバチョフ解放のために尽力した姿や、ちょっと滑稽なしぐさと改革者としての世評によって、エリツィンはロシアの人々の間でヒーローとして讃えられるようになっていきました。

このように民衆から人気のあったエリツィンが1991年6月の大統領選挙で当選したため、同年12月にゴルバチョフがソビエト連邦の解体を宣言した時も、エリツィンはロシアの大統領としてスムーズに移行することが出来たのです。

大統領としてのボリス・エリツィン

新しいロシアの誕生に伴い大統領として就任したボリス・エリティンに対しては、当初大きな期待が掛けられ、その期待に答えようと大胆な改革を行いますが、その結果は民衆が期待していたものとは違い、大統領としてのボリス・エリツィンの評価はそこまで高くありません。

大統領になったボリス・エリツィンは、ロシアに市場経済と民主的な政治を導入するために、数多くの画期的な改革を行っていきます。

しかしもちろん、この変化は簡単なものではありませんでした。

中央政府が資源、企業、そしてすべての産業を管理するソビエトの実験は約100年間も続いたため、当時のほとんどのロシア人はこのような国家のあり方しか知らなかったのです。

「ショック療法」によって新ロシアの暗黒時代を招いてしまった

そこでエリツィンは、自ら「ショック療法」と名付けた、ロシア経済の急激な市場主義経済の導入を図ります。

その中では、ロシア経済のほとんど全ての分野において、最も高い値で入札した者に国有財産を売り渡すという、大胆で過激とも言える私有化も実行されます(※これら購入者の多くはエリツィンの取り巻きの政治家やソビエト時代の旧友たちだった)

この結果、ロシアの経済は大混乱に陥りました。

ロシアの重要な資源や産業(石油や鉱業など)を独占することとなった一握りの幸運な人たちは短期間で驚くほど裕福になった一方、ロシア人口の大部分は失業者となり、ソビエト時代の蓄えや年金を使い果たさないと生活出来ない状況に陥りました。

さらに貧困層が頼りにしていたソビエト時代の福祉政策も次々に廃止されていったため、既に経済不況に悩まされていた人々の生活はさらに困窮していきます。

民衆の支持を失っていったボリス・エリツィン

人々の人気に支えられて大統領となったエリツィンも、これら過激な経済政策の遂行と失敗によって急速に人々の支持を失っていきました

またエリツィンは、分裂した民主的な議会における指導力と戦略にも欠けていたとされます。

例えば1993年、妥協的で物事の進行を妨害する議会にしびれを切らしたエリツィンは、ロシア最高会議ビルを戦車で包囲し、議会を解散させる大統領令を発布。

この時を境にして、エリティンの行動は独裁的となり、ロシア連邦における事実上の独裁者的存在となってしまったのです。

議会とエリツィンの激しい対立は1か月近くも続き、最終的に最高会議の指導者らは拘束されて刑務所行きとなり、さらに20人近い市民がデモの混乱中に命を落としました。

その後エリツィンは大統領の権限をより強固なものにし、さらに議会の力を大幅に制限した新しいロシア連邦憲法を制定します。

大統領選で「無理やり」再選した後もロシア経済は良くならなかった

そのようなエリティン政権を見かねて、ロシアでは共産党が再び台頭するようになります

そんな中、1996年の大統領選挙を迎えますが、この選挙の前にエリツィンは体調不良に悩まされ、世論調査では他の候補者よりも劣勢にありました。

特に共産党の議長であるゲンナジー・ジュガーノフに対して苦戦し、第1回投票での得票数は第2位になってしまいます

この結果、ボリス・ベレゾフスキー、ウラジーミル・グシンスキーなどの新興財閥(オリガルヒ)達は、ジュガーノフが大統領になると共産主義へ回帰してしまうのではないかと恐れ、巨額の選挙資金を使ってエリツィンの大々的なキャンペーンを展開

その甲斐もあり、エリティンは過半数の投票率を獲得してなんとか大統領に再選されます(エリツィンが何の事件もなく民主的に大統領職に再任したことは、ソビエト崩壊後のロシアの政治が平和でより落ち着いたものになりつつあることを象徴している)

しかし同時に、大統領選挙に協力したオリガルヒ達の影響力は強くなって大統領との癒着や政治的腐敗が蔓延していくこととなり、ロシア経済の改革は遅々として進みませんでした。

ウラジーミル・プーチンの後継者指名と辞任

大統領第二期目のエリツィンは、体調不良のために長期間にわたって公の場に出ることを避け、重要な経済・政治改革の発表をする時のみ人前に姿を現しました。

そんな中で1999年8月に、その後にロシアの長期政権を築くウラミージル・プーチンを首相として任命します。

統率力を欠き、期待とは裏腹に汚職まみれになってしまったエリツィンと異なり、寡黙でありながら着実に任務を一つずつ片ずけていくプーチンは、エリツィンの信頼を得るだけでなく、民衆からも人気になっていきます

そして1999年12月31日、エリツィンは突然辞任を宣言。

結果、当時の首相であったプーチンが後継者として2000年に大統領に就任し、ボリス・エリツィンはロシアの表舞台から姿を消すことになったのです。

その後は、エリツィンに癒着して権力を欲しいままにしていたオリガルヒ達が解体され、また、汚職にまみれた政治家などもプーチンによって一掃され、原油高の幸運も相まったロシアの経済は一気に成長。

一方、ボリス・エリツィンは2007年、心不全によって76歳でこの世を去りました

酔っ払いとして有名なエリツィンを象徴する3つの出来事

ロシア連邦初代大統領ボリス・エリツィンについてその歴史を駆け足で見てきましたが、エリツィンと言えば「酔っ払い」としても有名。

ここからは、そんな酔っ払いエリツィンを象徴する3つの出来事を簡単に紹介しておきます。

1992年キルギスにおいて

1992年にキルギス(旧ソ連共和国の一つ)は、こじれてしまった関係を修復しようとボリス・エリツィンを招きました。

このときのキルギス大統領はアスカル・アカエフ。特徴的な眉毛の持ち主で「その整え方はソ連の国家機密にも相当する!」なんて冗談がある人です。

しかしながら、アカエフは大事なことを二つ忘れていました。

一つ目はスプーンを持たせたらエリツィンの右に出る者はいないということ。エリツィンはスプーンを楽器代わりして見事な演奏をする特技の持ち主でした。

そして二つ目は、エリツィンには酒を消す(いくらでも飲める)才能もあったということ。

結局エリツィンはアカエフの光り輝く頭部を打楽器にして、スプーンで叩く演奏を披露すること・・・。

これは両国の関係に革新的な方向転換をもたらし、この二国間にはいまだに何ら重要な協定が結ばれることがないままになっています。

1994年のベルリンにて

1994年、ドイツのベルリンにロシア派遣団が送られます。

これはドイツからロシア軍が全て撤兵することを視察するもので、第二次世界大戦の頃からドイツにロシア軍が駐留していたことを考えると、事の重大さが分かります。

しかし、そんなことはエリツィンには関係ありません!

Boris Yeltsin's finest moments

エリツィンもロシア派遣団に同行していましたが、昼食時にはすでに酔っ払い状態に。

そして、当惑するヘルムート・コール首相の眼前でエリツィンは酔っ払いながらバンドの指揮を始めたかと思えば、ひきつった笑いを浮かべるドイツ人ダンサーと狂ったように踊り聴衆にはキスを投げかけ不明瞭なスピーチをするっていう・・・。

1995のワシントンDCにて

海外からの要人が訪米した際、ワシントンではブレアハウス(アメリカ合衆国大統領の賓客が宿泊する施設)が使われることがよくあります。

1995年にエリツィンが訪米した際、エリツィンはこのブレアハウスに宿泊することになったのですが、当時の警護スタッフにとっては大変な珍客だったようなのです。

というのも、宿泊したその夜、エリツィンはブレアハウスを抜け出し、下着姿で外出してしまったって言う・・・。

シークレットサービスがエリツィンの不在に気づき捜索したところ、エリツィンはタクシーを捕まえようと手を挙げているところでした。

エリツィンは酔っ払ってモゴモゴと不明瞭に喋っておりどうやらピザが食べたかったのだとかなんとか。

ちなみに、ホワイトハウスは10年以上もこの事件を公にすることがなかったために、ロシアは面目を保つことが出来たわけで、この点ではロシアはアメリカに感謝すべきかもしれません。

合わせて読みたい世界雑学記事

ボリス・エリツィン|プーチンロシアの前大統領で酔っ払いとしても有名のまとめ

ソ連が崩壊して出来たロシア連邦において、初期に大統領に就任したボリス・エリツィンについては、人によって評価が分かれます。

一方で、大酒呑みの酔っ払いとしては伝説的で、その人間らしさに好感を持つ人は多く、未だに多くのファンも存在している人物です。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

error:Content is protected !!